第三章 第九十七話:独りの坂
仁が罪に問われることはなかった。当時まだ少年であったこと、故意ではないことなどが加味された。仁は当時の記憶は、黒川を殺した辺りから曖昧で、ただ警察の人間だの、法律関係の人間だのと話しをしたことだけしか覚えていない。壊れた機械のように、「はい」と「わかりました」とを繰り返していたような気がする。恐らく父親のことについても何か言われただろうが、頭からは綺麗に抜け落ちている。連絡もつかない、所在も掴めないのだから、警察の人間も諦めたのではないだろうか。わかったとして、あの冷酷な父親が息子が人を殺めた程度で帰ってくるとも思えない。
ここから仁の頭の中で、よく覚えている箇所と、さっぱり思い出せない箇所が混在する。
親しかった人間がよそよそしく、いや、あからさまに仁を避けるようになり、学校側は退学勧告も検討しているとどこからともなく知っていた。冷たい視線。刺すような視線。畏怖と軽蔑と好奇と愉悦。仁の居場所は学校にはなくなっていた。
葬儀には参列を断られた。警察に渡された黒川の実家の電話番号にかけると、男の声がして、父親だったのだが、事情を説明すると来ないで欲しいと言われた。感情を押し殺した冷たい声。有無を言わさぬ声。憎悪と激情と理性と葛藤。仁はどんどん追い詰められていた。
そして奈々華に、彼女だけは自分の味方をしてくれると信じて……
はっきりと細部にわたるまで思い出すことが出来る。
うだるような暑さの中、仁は陽炎の舞う坂道をひたすら登っていた。小学生達とすれ違う。夏休みを迎えて、蝉とりやザリガニ釣りに心を躍らせる会話が聞こえてきた。すぐに遠く過ぎ去り、見えなくなった。登る。登る。汗を吸ったTシャツが鉛のように重く感じられ、ジーンズの内側にも汗が広がって鎖のように絡みついていた。太陽に照り付けられた路面は湯気を上げるのではないかというほど熱を持っていた。転べば火傷ではすまないかもしれない。転んでしまおうか。
黒川の家はどこにでもある平凡な一軒家だった。古くもなく新しくもなく、広くもなく狭くもなく。白い塗り壁と、椿を植えた生垣が青々としてコントラストをもたらしていた。呼び鈴を鳴らすと、しばらくしてややくぐもった男声が聞こえた。電話で会話した声。仁は名を名乗り、来訪の目的を告げた。焼香をあげさせてほしいと。そこで待っていろ、とだけ。五分はあっただろか、それとも三十秒程度だっただろうか。やがて玄関の戸が開き、中から中年の男性が顔を出した。歳相応に刻まれた皺とやや厚い唇。こけた頬は最近のものだろうとすぐに察した。その頬を時折、ピクピクと引き攣らせた。それも最近のことなのかもしれない。仁は喉の奥が詰まるのを感じた。
「あの……」
「ここではマズイ。場所を変えよう」
男性は仁の言葉を遮り、サンダルを履いて玄関から出てきた。仁のやや手前で止まると、一瞬その顔を見たが、すぐに俯き加減になって横を通り過ぎた。カポカポと音を立てながら歩く男性に仁はついていく。彼は何らスポーツはやっていなかったのだろう。猫背気味に歩くその背は弱々しく、一般的な成人男性よりも細く見えた。
やがて五分も歩くと、小さな喫茶店に辿り着いた。個人経営なのだろうか、古ぼけた縞々のアーケードが日に焼けて色あせていた。ガラス扉は管理が行き届いていないのか、所々白んでいた。カランコロンと来客を告げる鈴が店内に鳴り響くのを聞きながら、仁は小さく店内を見回した。お世辞にも広いとは言えず、外装同様年季が入っている。三組ほどテーブルと椅子があり、椅子はテーブルの上に逆さまに置かれていた。おばさんが小走りに寄ってくると、入り口から一番遠いテーブルの椅子を下ろして、どうぞと声をかけた。男性が奥に座る。仁はゆっくりその対面の椅子を引き、座った。
「すまないね」
単なる枕言葉にしても、そんな言葉が出るほど男性は大人だった。いえ、と短く答える。男性は常連なのか、おばさんはアイスコーヒーね、と勝手に品を決めた。仁も同じものを頼んだ。
「家内はかなり不安定でね。家に上げると君に何をするかわからない」
半分本当で、半分嘘だとわからないほど、仁は子供ではなかった。家に上げるのが嫌なのだ。当然だ。息子の命を奪った男を我が家に招き入れるなんてありえない。
「さてと…… まずは君の考えを聞こうか?」
テーブルに両肘をついて組み、その上に顎を乗せた男性がわずかに身を乗り出す。その目には御しきれない怒りと悲しみが色濃く浮かんでいた。