第三章 第九十六話:黒川
仁が黒川と対峙したのは、そのときが初めてではなかった。同級生同士、三年の間には幾度も対戦したことがあった。
あまり部活動に熱を入れてはいなかった仁は、よくサボる、部の取り決めに従わないと、剣道部内でも困った存在になっていたのだが、顧問の教師が退部にしなかったのは、ひとえに彼の大会での成績によるものだった。悉く良い結果を残し、実力差のつきにくいと言われるこの競技で仁は圧倒的な強さを見せて、全国大会でも何度も優勝している。人生において負けたのは、サボリによる不戦敗だけ。関係者からは早熟の天才と形容された。売名と割り切って、顧問の教師も大会では彼を常に大将として据えた。
その日も他校との交流試合に駆りだされた仁は、黒川堅固と当たった。もう仁はそのときどちらが何対何で勝っていたなどとは覚えていないが、いつもと同じように気だるそうに竹刀を持った。父に半強制的に習わされた剣道を仁はあまり好いてはいなかったのだ。
黒川は、凛々しい目元とシャープな輪郭をした甘いマスクで女子にはかなり人気のある男だった。大会などには追っかけてやってくる自校の女子が必ずどこかにいた。城山は黒川のことが嫌いではなかった。一度だけ話したことがあるが、自分の容姿を鼻にかけているような雰囲気はどこにもなく、あまり親しくない他校の生徒である仁にも気さくに歯を見せた。もっと自分に積極性があれば友人になることも出来たかもしれないと、今になって仁は思っている。試合開始の合図が聞こえる。
互いに仁は正眼に、黒川は上段に竹刀を構えた。今日の剣道界では非常に珍しい。実は仁が一度黒川と話したというのは、彼にどうして上段に構えるのかと聞いたのだった。「だって何かカッコイイだろう」と答えた。屈託のない笑顔を、仁は今でも鮮明に思い出すことが出来る。いや、一生忘れることが出来ない。
黒川の上段からの速い面を、竹刀を寝かせて受け止める。基本的に黒川は面を狙った攻撃が多い。わかっていながらフェイント等も効果的にまじえた黒川の攻撃はなかなかに手強い。仁の学校の一同も、相手側も皆固唾を飲んで見守っている。心地良い高揚感と緊張感。竹刀がぶつかり合うバキッと鈍い音だけが体育館を支配する時間が続いた。
もう何度目かわからない面を受け流し、仁は突きを繰り出す。黒川との手合わせでいつも彼をねじ伏せるのは仁の突き。体に竹刀を引き寄せる動き、初動の全く読めない突きは、卓越した身体能力と幼少からの血の滲むような努力の賜物。絶対の自信を持つ神速の突き。
腕の筋肉の収縮さえ感じられる気がするほど集中していた。だが黒川もこれまで幾度となくその突きに屈辱を味わっている。当然何かしら策を練ってはいるのだろうと、そのときはその程度しか考えていなかった。もう何度後悔したかも分からない。このときもう少し相手の出方を考えていれば、あんなことにはならなかったのにと。
黒川は考えていた。後退してかわそうとしていつも避けきれずに食らってしまう突き。ならばと……
黒川の体が一段大きくなる。踏み込んできたのだ。踏み込みながらかわしてカウンターを決めるつもりだったのだろう。黒川の意図に気付いたときには手遅れだった。やめろ、と心の中で叫んだ。仁は自分の伸びきった腕が黒川の首に真正面から向かっていくのを、嫌にゆっくり感じていた。全てが遅い。いかに常人離れした仁であっても、一度繰り出した自身の渾身の突きを途中で止めることなど出来ようはずもなかった。
用心たれを貫いた仁の突きはグシャリと嫌な音を立てて黒川の喉を潰していた。黒川はそのまま力なく仁の側に倒れこむ。面の隙間から黒川の開ききった瞳孔が見えた。ずるりと力なく仁の胸から崩れ落ちた黒川の体は床に突っ伏して、一ミリたりとも動かなかった。
顧問の教師が駆けつけ、何か喚いていたが、何を言っていたか仁は覚えていない。ただ自分の腕に残る骨を砕く感触と、黒川の死人のような瞳が頭から離れず、放心したようにその場に立ち尽くしていた。黒川の喉あたりから、仁がそれまで見たこともないほどの血があっという間に流れ出し、体育館の床を血だまりに変えていく。
八月の初旬、体育館の中に流れ込んでくる油蝉のジーっという鳴き声が恐ろしく大きく聞こえていたのだけを仁は覚えている。