第三章 第九十五話:財
「最後に言っていたのは?」
仁がのんびりとした声を出す。だけどあの状況で抜け目なく坂城の言を耳に入れていたのだから、さすがと言うべきか。
「実は…… 君は報酬については交渉をしないと言っただろう?」
「ああ、そうだな」
だけどそれがどうした、と言いかけて坂城に遮られた。
「勝手だが、その代わりに条件を出したんだ」
「条件?」
坂城は言葉を選ぶように、しばし顎に手を当てて見るともなくテーブルの上を見ていたが、やがて意を決して言った。
「近藤の遺体を引き渡して欲しいと言った」
はたと仁が笑みを消した。坂城はだから言うのを躊躇った。仁の顔を曇らせたくはなかった。だけど言わないわけにもいかなかった。仁はしばらく考え込むようにしていたが、やがて神妙に頷いた。
「それでまだ履行されていないってわけか」
仁は顎に手を当てたまま。坂城は約束が遅れていることについて、自分が責められているような気持ちになった。
「すまない…… だが君のためを思って」
そこまで言って、坂城はしまったと口に手を当てた。それはあまりに恩着せがましい。言い訳がましい。浅ましい。そんなことを言ってしまえば仁はまた自分のことを気遣ってくれる。今は彼のほうが忸怩たる思いを抱いているはずなのに。だが顔を上げた仁は少し憂いを帯びてはいるが笑っていた。
「実は俺もそれは向こう側にお願いしようかと思ってやめたんだ」
「え?」
「だって俺に近藤さんの遺体を預かる権利はないだろう?」
ただ冷たい手続き上の権利関係を言っているのではないことは容易に推察できる。坂城は予想外の仁の発言に固まってしまった。そんな坂城を気にしているのかいないのか、仁はそのまま続けた。
「だけど、祐…… くんが現れたなら別だ」
そうだな、と辛うじて相槌を打つ坂城。彼には権利上も、倫理上も父の遺体を受け取り、手厚く葬る権利がある。
「そもそも今、近藤さんはどうしているんだ?」
生きているかのような言い回しに、坂城はまた言葉につまった。もはやその遺体がフロイライン赤の幹部、煉獄のヒューイットと確認が取れたのだから、当然向こう側としてももう用はないはずだ。仁はそう言いたいのだ。
「すまない…… それについてはまだ確実なことは言えない」
相手も内部に間者が潜んでいることはわかっているのだから、情報管理は厳しくなっているのだろう。もう少し待とうと、仁はそれ以上の追求を避けた。
「俺はお前を許さない」
もう何度も脳内で反芻した言葉。こんな言葉を投げつけられるのは二度目だった。学園長室を辞し、廊下を歩く仁は、虚ろな目をして唇を真横に結んだまま。前方を見ているようで、彼はどこも見てはいなかった。近藤祐。確かに理知的で賢明な子供だろう。仁が十五かそこらのときに比べると、格段に大人びている。だけれどそれだけなのだ。殊勝と非情は混同すべきものではないし、そのことは実際にこの言葉に集約されていた。
「俺はお前を許さない」
口に出す。それを言った本人とは比べ物にならない程に弱々しい声だった。右手に持ったアタッシュケースを見る。これを受け取る権利が自分にあるのか。これは彼にこそ渡すべきものじゃないのか。遺体と同様に、父の遺したもの。もちろんギャンブルなどにつぎ込む気は毛頭ないが、それにしても仁の生活に充てるべきものではなく、一人息子のためにこそあるべきじゃないか。仁の体温で鉄の取っ手は温められていた。誰かから強奪した金を持っているような罪悪感がそこから伝わるようだった。いっそこのままケースを放してしまえば、気持ちがすっと楽になるのだろうか。
いつのまにか階段の前まで辿り着いていた仁は、意を決したように右手に力を込め、ゆっくりと下っていった。