第三章 第九十一話:友情
こうやってコソコソ下調べのようなことをして、安息を得る。祐が編入してこないかも知れないと知ってほっとしている自分を、仁は自覚していた。陰湿という言葉が頭の中に浮かぶ。ただ嫌なものから逃げることだけを考えている。近藤はこんな男に自分の息子を託したのだ。
仁はそんなことを考えながら、山の斜面を下っていた。前日の雨でぬかるんだ土砂は仁の足を取ろうと隙を窺っている。斜面を下り終えると、すぐさま見知った顔が駆け寄ってきた。
「探したぞ、仁」
ぱあっと一瞬で表情を明るくした坂城から、仁はすっと視線を外した。
「何をしていたんだ?」
そんな仁を怪しむでもなく、坂城は仁の目前まで来るとピタリと止まった。前日の抱擁を思い出しているのか、坂城は忙しなく視線を泳がしている。
「……君は今まで何人の男と付き合ったことがある?」
心底興味もなさそうに聞いた。坂城はようやく仁の不審に気付いた。顔を顰めて真意を考えている。
「何だいきなり?」
別に何でも良かった。嫌がることを言いさえすれば。今つけている下着の色を聞いてもよかった。
「今は一人にしてくれって意味だ」
「……」
仁は置き去りにしようと、やや早足で歩き出した。しかし坂城はそれに駆け足でついてくる。
「聞こえなかったのか?」
「……ゼロ人だ。私は箱入り娘なんでな」
気恥ずかしそうに笑った坂城に、仁は目の前が白くなるような怒りを感じた。
「聞いてねえよ」
「聞いただろう」
「答えろなんて言ってねえ」
隣を併走する坂城を一つ睨むと、仁は語気を荒げた。一人にして欲しいと言っている人間を追い掛け回すなんて一体どういう了見だ、と。足を動かすスピードをまた一段上げた。
「勝手だな」
そうだ、勝手だ。昨日は抱きしめたくせに、今日は逃げるんだ。自分の気持ちを整理できないまま、自分の矛盾を消化しきれないまま、他人に優しくできるほど、仁は器用ではなかった。
「話してくれ。私は君の力になりたいんだ」
それが仁の限界だった。カチンと頭の中のどこかにスイッチが入るような音を聞いた気がする。
「うるせえな。放っておけって言ってんだろ!」
「奈々華には話すんだろう!」
坂城も負けないくらいの大声を出した。仁の足が止まる。坂城もまたゆっくりと歩みを止めた。しばらく二人の荒い息だけが周囲に聞こえていた。やがて仁が根負けしたように口を開いた。
「……アイツは身内だ」
「友達は身内ではないのか?」
「……」
「君は私を友だと言った。そしてそのように扱ってくれる」
「……」
「私も君を…… 友だと思っている。そのように扱いたい。困っているなら助けてやりたい。私なんかでは役に立たないかもしれない。だけど……」
痛いほどに握られた坂城の両拳は白くなっていた。それを見た仁は急速に頭が冷えていく。やがて幾ばくかの沈黙の後、とつとつと自分の心の内を話し始めた。近藤の息子がこの学園に来るということ。それを自分は歓迎していないこと。行方から聞いた話で、彼が編入することはないかもしれないこと。自分がとても自分本位であること。全て話し終えると、仁はふうと一つ大きな溜息を吐いた。
「辛いだろうな」
坂城はもっと気の利いたことが言えない自分が腹立たしくて仕方なかった。しかし彼女の気持ちは十分に仁に伝わっていた。もともと力になって欲しいと思って話したわけではない。自分の痛みは自分のもの。ただそれを気遣ってくれさえすれば、それでいいのだ。その気持ちが彼をまた奮い立たせる。彼女もまた悩みの中にいながら、彼を支えようとしてくれる。
「何か…… 何か私に出来ることはないか?」
心からの思いだった。
「そうだね。じゃあ体で慰めてもらおうかな」
「え?」
「冗談だ。ありがとう。気持ちだけありがたく貰っておくよ」
セクハラ紛いの軽口が叩けるようになったのは、彼女のおかげ。仁もまた本心からそう言った。ひらひらと手を振りながら仁は去って行った。
「私は…… それでも」
坂城はその背をどこか焦点の定まらない目で見ていた。