第三章 第八十五話:暗闇とやぶへび
いつからそうしているのだろうか。
ミルフィリアは新しく出来た墓の前で座して祈りを捧げている。墓がまばらに点在する墓地には、彼女以外に人はいない。丁度学園に向かい合ってある墓地はかなり地価が高いらしく、見ると全部で十にも満たない墓石。近くに中谷慎二の墓標もあるらしく、そこに更に付加価値を与えているそうだ。
土には雨が染み込み、墓石もずぶぬれたネズミのように濃い灰色。暗色ばかりの景色に黒いスーツを着た少女。傘を肩にかけて、目を閉じる姿は墓場の雰囲気に溶け合っているようにも見えてくる。
何を語りかけているのだろうか。
両親の墓の前。彼女が罪を負ったと、それでも、今はの際まで愛されていたらいいのに。そう思った、そう信じた両親の墓の前。謝っているのだろうか。尽きせぬ懺悔をとつとつと。感謝しているのだろうか。余すことなく愛を注いでくれたことを。こうして生きていてもいいと、そう思えるきっかけすら与えてくれたことを。彼女の前には、ただ黒い墓石と、脇に備えられた菊の花が、それを濡らす慈雨を吸い込んで重たそうに首を垂れているだけだった。
階段を登り終えた二人はその姿を見て声をかけずにいた。何となく、彼女が気付くまで待とうと、示し合わせたわけでもないのに、そうしていた。ミルフィリアはやがて、ふと目を開けると、二人のほうに向き直って薄く笑いかけた。
「どうしたのですか? そんなところで突っ立ってないで」
手招きする。
「両親に挨拶してください」
仁がそうだなと小さく返して、歩み寄っていく。奈々華は遠慮がちにそれについていった。ミルフィリアが脇にどいて、兄妹は揃って墓前にしゃがみこんだ。合掌する仁に倣うようにして奈々華もそうした。
葬儀にも立ち会わず、墓が出来た頃にやってきて、手を合わせていく自分を彼と彼女はどう思うだろうか。仁は手の甲に、指が食い込んでいくのを感じていた。暗闇の中で二人の最期を思い出す。濁った硝子玉を二つはめ込んだような虚ろな目。罪人を無言のうちに責めていたんじゃないか。刀にまとわりつくような肉の感触。がんじがらめに自分を縛る罪の意識を、これからを暗示していたんじゃないだろうか。死体に手をかけるような非道を、手塩にかけた娘をオモチャにしようとした非情を、それらを忘れたように振りまく偽善を…… 彼らは同じような暗闇から自分を見ているんじゃないだろうか。暗い地中から、黄泉の国からその罪深い所業を……
「お兄ちゃん?」
奈々華の声に、仁は急速に現実へと、光の届く場所へと揺り戻された。雨とは違う水滴が、じっとりとした脂汗が仁の背をつたっていた。
「……ああ」
揺り戻してくれるのはこの子だ。あの時もそうだった。この子が居なければ仁はとうに狂っていたかもしれない。奈々華の顔をずっと見つめていると、最初は困ったように眉根を寄せて、訝って口をぽかんとさせ、終いには頬を染めてはにかんでいる。そんな全てが仁の正気を保たせているらしかった。仁と世界を繋いでいるのだった。
「あの…… この子が?」
ミルフィリアが困ったような声を出した。彼女と奈々華はこうして直で顔を合わせるのは初めてのことだった。暗に紹介を促しているのだ。
「そうだ。この子は俺の妹で、奈々華」
仁は次いで奈々華にミルフィリアを紹介する。と言っても二人とも仁を介して互いに話には聞いている。自分が守りたい者、と言った奈々華。困っている少女、助けを求めている少女、坂城の従姉妹、ミルフィリア。しかし両者ともしばらく握手も交わさず睨みあうようにしていた。先に口を開いたのはミルフィリアのほう。
「なるほど、大切にしたくなるのも分かります。とても可愛らしい妹さんですね?」
言葉ほどに口元は緩やかではなくて。
「いえいえ。ミルフィリアさんこそ、お兄ちゃんが力になりたがる程に美人さんですね?」
奈々華に至っては怒気に近いものを目に宿している。
「仲良くしろよ……」
口の中だけで言った仁の言葉はしかし、両者の耳に届いており、すぐさまきっと睨まれる。怒りの矛先を向けられた仁はたまらず二歩、三歩後ずさった。