第三章 第八十四話:予定調和
第三章:贖罪のゆくえと白の祈り
今日は朝から雨だった。治水の行き届いたこの地域には恵みにもならない水滴が、鈍い灰色の空から間断なく降り注いでいた。アスファルトの端をいくつもの細い筋が用水路へと流れ込み、奈々華がそれを子供のように踏み鳴らしながら歩いている。
「お前、雨好きだったっけ?」
後ろを歩く仁は黒い傘を少し上げて奈々華を見ている。電車で行こうと言った仁に、奈々華は徒歩を所望した。本中谷までは片道五キロ以上あるが、楽をすることに内心気後れしていた仁はそれに従った。遊びに行くわけでもないし、急ぐわけでもない。奈々華を気遣って言っただけだった。
「ううん、別に」
言葉とは裏腹に、くるくる赤い傘を回す奈々華は楽しそう。いつか来た京禮ホテルを過ぎ去り、三十分も歩くとあたりは都会の喧騒を忘れていた。商業用のビルは一つとして見当たらず、ポツポツと住宅があるだけ。仁と奈々華はしばらく黙って道を歩いた。
顎と肩で傘を挟むと、仁は上着のポケットから取り出した一枚の紙を丁寧に引き伸ばした。クシャクシャに丸められたそれは、ミルフィリアの手書きの地図。目を細めて睨めっこする仁は、先を行く奈々華に声をかけた。
「ここらへんにモニュメントがあるはずなんだけど……」
目印にモニュメントとある。そこを過ぎれば目的地まで一キロとない。
「あれじゃない?」
奈々華が前方を指差す。その先には彫像のようなものが見える。石を削った不恰好な三日月。アシンメトリーには程遠く、前のめりになったように、台座にちょこんとお尻の先っちょだけが乗っている。近づいて確認すると、三日月の上半分には顔が彫られている。白目だけあり、鼻はなく、唇は妙に分厚く半笑い。
「何かイラッとする顔だな」
「趣味悪いね」
兄妹には不評。台座には<コーヨー・ヒノ>とローマ字。その上の説明文を読むに、大戦以前に作られたものらしい。戦禍を免れたことで有り難がられ、小奇麗に管理されているようだ。
学園ほどではないものの、丘は見上げるほどの高さで、表面は緑に覆われていた。常緑樹が多く植えられているのだろうか。鬱蒼とした木々が覆い被さるようにしながら、麓の入り口から頂上まで続くであろう石段が見えた。どこか秘境へと続くようで、奈々華も仁もそのものものしさに少し足が竦む思いだった。
「……俺にお参りする資格があるだろうか?」
苔むした階段を上りながら、仁は足音や雨音が掻き消してしまえばいいという声量で言った。ぬかるんだ石段は、足を置く度ピチャピチャと音を立てていた。
「ここまで来ておいて、今更?」
目的地の<不退寺>はこの石段を上りきれば、麓の立て看板には煩悩の数と同じだけあるそうだ、すぐそこだ。そうだね、と小さく仁。それきり二人は黙々と石段を上った。伸びた枝を鬱陶しそうに避けながら前を歩く奈々華を、仁はぼんやり見つめていた。
丘の中腹あたりに差し掛かったとき、奈々華が突然足を止めた。くるりと振り返る。気遣わしげに眉を寄せたその顔を、仁はやはりぼんやりと見ていた。
「……二人もきっとお兄ちゃんに感謝していると思うよ?」
「そうだろうか」
「ミルフィリアさんもそう思うから呼んだんじゃないかな?」
すり足のように慎重に奈々華が石段を一歩、二歩下りる。仁の一段上で止まると、じっと兄の顔を見つめた。仁はそっとその視線を逸らし、奈々華のお腹のあたりに泳がせた。妹にはその姿がとても弱々しく見えた。思わず抱きしめたくなるほど……
「そうだよ、お兄ちゃんは感謝されるようなことをしたんだよ」
「そうだろうか」
奈々華がすっと空いたほうの手を伸ばして、仁の頬を撫でる。
「もし仮に恨まれているとして…… 私はお兄ちゃんの味方なんだから」
そう言ったでしょう? と。それでいいでしょう? と。奈々華は優しく笑った。
「そうだね…… そうだったね。言ってみただけだよ」
ふいと顔を上げた仁はもういつもの仁だった。母親に甘えた子供のように少しはにかんでいるけれど。そっと奈々華が自分の顔を仁の横顔に近づけた。そうして耳元で囁く。
「甘えんぼ」
奈々華の息遣いが感じられて、仁はこそばゆそうに身を捩った。