第二章 第八十三話:弱者
竹林が広がる山の東側の斜面をゆっくりと登っていく。背中の温もりが、おこがましくも自分と世界を繋ぐ唯一の架け橋のように感じていた。すだれのような竹の幹の合い間に、先刻より幾分雲が覆う朧月が見えた。腕時計をちらりと見ると銀色の短針は午前二時を指していた。斜面を登るごと強くなる寒風は長袖の上からでも仁の肌を刺していた。
「……う、うん?」
首のすぐ後ろでした声を仁は振り返らない。起きたかと、存外冷静な声で自分でも吃驚していた。
「ここは?」
「学園に帰っているんだよ」
ミルフィリアはその返答を少し噛み砕いていて、数瞬の後、声を上げた。
「父様と母様は!?」
「……悪いが置いてきた。今日は一旦帰ろう?」
背後から声がしなくなった。戻れと怒られるだろうかと、仁は半ば身構えた。
「そうですね……」
いつもの冷静な声と判断。けれどもいつもよりも多分に沈んでいた。弱さをおくびにも出さない彼女がこれほど素直に弱みを見せているのが、仁には信じがたかった。涙を見せて、沈んだ声を出して、まるで……
「傷を舐めて欲しいんだと思います」
一瞬仁の足が止まった。思考を先読みしたかのように紡がれた言葉はしかし唐突だった。
「誰かに傍にいて欲しいんだと思います。両親の亡骸だけが眠るあの場所に居たくないんです」
「……やめろよ」
「勝手に蘇らせて、勝手に戻して…… 私はその鎮魂すら怖がって……」
「やめろってば」
「どうして私を助けたんですか? あのまま死なせてくれたら良かったのに」
仁はその言葉を聞いて、心臓を鷲掴みにされたように固まった。
「私の身に刻まれた黒の呪い。裏切りの報告を受けた涼子が発動させたはずなのに…… アナタが解いたのでしょう?」
仁はそっと胸を撫で下ろした。違うことを言っている。どうやら彼女のあの憔悴ぶりは、彼女の両親を秘匿されることではなく、自分の死期が迫っていることを理解してのものだったらしい。そしてそれを解呪したのは……
「……」
「傷舐めあうは弱者の性」
うわ言のように仁が呟いた。ミルフィリアが背後で訝しんでいるのを背中で感じる。
「されど…… 傷癒えた時、弱者は二人で立ち上がる」
「何ですか?」
「俺が昔好きだった小説の主人公が言ってた言葉」
アスファルトの上に、小さな水溜りがあった。いつの間に降っていたのだろうか、或いは幾日も前に降ったものがこの湿気の多い林道では蒸発しなかったのだろうか。仁はそれをピョンと飛び越えて、ミルフィリアはゴツンと顔を仁の肩にぶつけた。
「痛いですね……」
「舐めてやろうか?」
バシッと背中を叩かれた仁は、小さく笑った。どこか翳のある笑み。それを吹き飛ばすようにもう一つ快活に笑った。からかわれたと思ったミルフィリアは子供のように頬を膨らませた。
「……俺には何もわからないから、素人の当てずっぽうな?」
「何がですか?」
「君の両親はそれでも君に生きていて欲しいんじゃないかな?」
「……」
はっと息を飲む音。ミルフィリアはその後、静かになった。仁は今度こそ優しい、父親のような顔をして背中を貸していた。
「両親の夢を見ていました」
まだ声には湿気がある。ズズッと鼻をすする音も聞こえた。
「父は優しい人でした。甘やかしすぎだとも思いますけれどね」
最後は笑いながら言った。
「うん」
「母は厳しい人でした。父が甘やかす分、きちっと私に物事の道理を教えてくれました」
「うん」
「目が覚めた時、父に背負われているのかと思いました」
「俺が?」
仁もふと笑みを零した。
「……昔よくこうしてオンブされてました」
「そうか」
また水溜り。ほら、飛ぶぞと仁。ミルフィリアは顔を背中から離して無邪気に笑っていた。
「親とは偉大なものですね?」
「だから当てずっぽうだってば」
仁は何だか知らないうちに走り出していた。
「私もそう思えました…… エゴイストですね」
「そうだな」
それでもいいじゃないか。笑っていられるなら。罪に向き合う時はいずれ訪れるのだから。それまでは楽しく過ごす権利くらいあってもいいじゃないか。
第二章 雪解ける兄妹と青の苦悩 了
まことに勝手ながら、少し筆を休めたいと思います。
次回更新は十二月になってからだと思います。
ご了承、ご寛恕下さい。