第二章 第八十話:うごめく死体
学園がある丘の西側に下ると、中谷の街があるのだが、東側には何があるのか仁は知らなかった。中谷の街に劣らず建造物が並ぶ街並みだが、それらは全て住宅のようだった。一軒一軒がとても広大な敷地を有しており、建物自体も新しく小奇麗。どうやら高級住宅街のようだと、仁は頭の幾らか柔らかい部分で思った。ミルフィリアは走り通してなおその足を緩めない。
「ちょっと待ってくれよ」
息も絶え絶え、前を行く彼女に仁は弱々しい声をぶつける。
「状況がわかっているのですか? 先にも申しましたように私にはあまり時間がないのです」
一向に足を緩める気配もなく、どころか振り返ることもせず、切る風に独り言を言うようだ。趣味の悪い、線対称に建ったコンクリートの家を過ぎ去り、曲がり角に差し掛かる。迷うことなく右に折れたミルフィリアの横顔が一瞬見えた。焦燥に満ちていた。仁もその後を追う。
「俺がどんだけタバコで肺をやられてると思ってんだよ?」
「知りませんよ。やめればいいでしょう?」
ミルフィリアは冷たく言い放ち、その歩を緩めた。休憩を取ってくれるのかと安堵しかけた仁は、彼女の爪先が向く場所を見て、息を呑んだ。
豪邸、他の家々とくらべても目劣りすることのない豪邸。しかしその周囲にはモヤのように水蒸気が巻いていて、輪郭をひどく曖昧にしていた。黒を基調としたゴシックな作りの洋館。庭を囲う黒い鉄柵にはバラの蔦が絡み付いていて、所々鮮血のような花弁もあった。庭にはよく手入れされたモミの木が十や二十を下らない数で林の体。
「魔女の屋敷だな……」
そんな言葉が仁の口をついて出た。ミルフィリアはそれに気を取られることもなく、悠然と庭に足を踏み入れる。勝手に入っていいのか? と声をかけそうになって、恐らくはコレが彼女の生家なのだと仁は口を噤んだ。
「この家は魔術で、結界とでも言いましょうか…… 一般人には空き地に見えるようにしています。程度の低い魔術師にも見えないでしょうね」
それで制約の印を受けた坂城にもなくなっていたように見えたのだろう。少し思案した仁を置き去りに、カツカツと歩を進めるミルフィリア。庭を縦断する石畳も黒々としていて、仁は先を歩む彼女を追うのを少し躊躇った。
「……」
やがて庭を過ぎ、材質も遠目では分からないほどに霧が濃いのだが、大きな黒い門扉の前でミルフィリアは立ち止まった。
家の中も高そうな調度品が並び、赤いビロードの絨毯を敷かれた床に合うように、壁紙も全て赤に統一されていた。黒い館の中は染まるような赤。ケルベロスの胃の中にでも入ったように、仁は背筋が冷たくなるのを感じていた。先を歩くミルフィリアはさっきから一言も話さない。数メートル置きに灯る燭台がものものしさに拍車をかけていた。やがて五分も歩くと、家の居間に続くのだろう扉が二人の前に立ちはだかった。ミルフィリアはやはり何も言わず、真鍮のドアノブを捻った。
マネキン人形。そんな言葉しか仁の頭には浮かばなかった。それしか形容する言葉はなかった。虚ろな瞳、光のない目で居間を忙しなく動き回る女性。長い黒髪をした彫りの深い顔立ちの女性。ミルフィリアの母親だとしたら、四十は下らない筈だが、二十代と言っても疑問を持たないかもしれない。恐ろしく感情のない顔でキッチンとダイニングを行き来している。仁は顔から下に目を向けて、はっと息を飲んだ。右腕がない。ばっさりと。白いワンピースの右袖から伸びた腕は脇から数センチもないところで途切れている。腕の断面が見えた。皮膚が覆うでもなく、血が噴き出ているでもなく、ただ抉れた皮膚から赤黒い体の組織が見えていた。女性が夢遊病患者のような覚束ない足取りで向かった先でまた仁は息が詰まるような思いをした。顔を痛々しい火傷に爛れさせた男性。ソファーの上で微動だにしない男性は生きているとは思えない。緑のポロシャツから覗く胸元には生々しい傷があった。何かで引っ掻いたような、それだけで致命傷になりかねない縦に走る大きな傷。やはり傷の断面が負ったときのまま、噴出す血だけがなくなったように。
仁は二人の姿を一通り見て、隣で立ち尽くすミルフィリアの体が震えているのにようやく気付いた。固く引き結んだ体を、顔をそれでも悲しみにうち震わせているのだ。
「……」
彼女が見つめる先を追った。変わり果てた両親の目を見ているようだ。生気のかけらもない目を。一向にぶつからない視線。二人は自分の娘をわからないのだ。もっと言うと何も感じず、何も考えず、何を聞くこともなく、何を見ることもないのだ。
「……これが私の罪です」
仁はかける言葉をダイニングキッチンの中に探した。たっぷり三十畳はあろう広い部屋にあるのは、生活家具と意思のない人形のような彼女の両親だけだった。