第二章 第七十九話:他者
血の気の引いた顔で、仁の横をすり抜けると、坂城は地面に倒れこんだままの姉と慕う少女の傍まで駆け寄った。その体に縋るように抱きつき、首だけを仁に向けた。キッと睨むような双眸に、敵意と覚悟を見たような気がした。
「……やめろ仁。やめてくれ」
ミルフィリアは未だ目の前の事態が信じられないと言った風で、元々大きな目を更に大きく見開いたまま坂城を見ていた。
「これ以上やったら、姉様が死んでしまう……」
そこまで言って、自分の死という単語に、表情を曇らせた。仁の顔からは完全に表情がなくなっていた。ただ黙って殉死した全魚人の体を乱暴に引っつかみ、自分の背後に押しやった。
「姉様も…… これ以上戦う意味はありません」
そう言った坂城は既に仁から目を切り、自分の腕の中で固まっているミルフィリアの目を泣き出しそうな顔で見つめていた。体だけなら坂城の方がミルフィリアよりも大きい。姉様という言葉がなければ、姉が傷ついた妹を労わっているように見える。坂城はスカートのポケットからハンカチを取り出し、姉の顔にかかった下僕の血を丁寧にふき取り始めた。
「仁が、解呪の方法を見つけたのです! これで…… これで」
そこまで早口に捲くし立てて、坂城は辛抱たまらず、泣き出した。赤く染まったハンカチを持つ手がプルプルと震える。仁が泣き声に遮られるのをわかっているような声量で、何事か呟いた。
「やれやれ…… とんだ邪魔が入りましたね」
やっと頭の回転が事態に追いついたミルフィリアの声は責めるようなトーンではなかった。しょうがありませんね、と足す声には現に可愛い妹を気遣うような気配があった。
「本当は精霊を一体仁さんに討たせて、それで今日は撤退というシナリオだったのですが……」
チラリと学園の外、鉄門の向こうを見た。坂城はそれを泣き声の合間に聞き及び、ようやく自分が余計なことをしたのだと気付いたようで、潤んで揺れる瞳を姉の顔に向ける。しかし彼女に非があると言い切るにはあまりに酷。出来レースをやっていたとは思えないほど、仁の様相は恐ろしかった。敵の僕の血を顔中に浴びてなお、その眼光は鋭く光り、ミルフィリアを捉えていた。
「仕方ありません…… もう私には時間がありません。仁さん」
坂城の肩を両手で包むように掴み、優しく退けたミルフィリアは仁に真剣な顔を見せる。すっくと力強く立ち上がると、その表情のまま言った。彼女の企みが、両親を呪いから解き放つために敵と通じていたことがバレた今、確かに時間はない。彼女の両親を彼女が知らない場所へ送られては手の施しようがない。
「ついて来てください」
それだけを言い残し、ミルフィリアは学園の外、彼女の監視が居たのだろうか、鉄門へ向かって勢いよく走り出す。仁もそれを追おうとして…… 坂城が自分の上着の袖を引っつかんでいるのに気付いた。泣いていたせいだろうか、それとも彼に触れるのが、いつも冗談を交し合う彼に触れるのが怖いのか。彼女の手は微かに震えていた。
「すまない……」
俯けた顔で消え入るような声で。仁はゆっくりと腕を持ち上げ、ひっかかっていた彼女の手を解いた。
「……気にしちゃいないさ。行ってくる」
仁の目は既に坂城を捉えておらず、走り去ろうとするミルフィリアの背に集中していた。幾ばくかの沈黙の後、仁は駆け出して行った。
坂城は自分のすすり泣く声の間隙を縫うように耳に入ってきた声を聞いていた。ひどく冷たい男声。
「俺が信じられないのか……」