第二章 第七十八話:青の苦肉
二階から漏れる生徒達の部屋の明かりが遠くぼんやりと輝く中庭に、刀と槍がぶつかり合う金切り声が響いていた。ぶつかり合う切っ先からほのかに火花も散っている。渾身の一撃を、渾身の一撃が受け止める。
「大いなる水の神代。我其の重責を果たさんと、ここに今一度力を求む。水の恩恵を遙か彼方に忘れし不逞の芥を押し潰すその強大をここに示せ!」
ミルフィリアの体が一際大きな青の光に包まれる。それを目の端で捉えていた仁は、一瞬の隙もなくすぐさま横っ飛びに今居た場所を離れる。時間にして一秒にも満たない逡巡、ミルフィリアの突き出した右手が淡く光り、仁が居た場所に巨大な氷柱が突き刺さる。ドライアイスのように白い煙を纏うそれは仁の身長の二倍はあろうか。芝生を抉り、土に食い込んでなおその威力は留まらず、グリグリとドリルのように地中を掘り進んでいく。横顔にぞっとしない冷気を浴びながら、仁は間髪入れずに自分へと猛進してくる全魚人の三叉の突きを刀の腹で受け止める。金属の先に見える能面は笑っているようにも、怒っているようにも見えた。キキキと黒板を引っ掻いたような音を立て、槍の先が刀を下へ滑っていく。
「水よ、我等に生命と叡智を与えたもう大いなる自然の恵みよ。今一度静かなる怒りを、猛威に込めて解き放て!!」
どこかで聞いたことがある。坂城が炎の巨人にお見舞いしたあの大津波だ、と仁は思い出し、あっと言う間に発動の光に包まれたミルフィリアを見た。慌てて数メートル下がり、様子を窺う。また右手を突き出し、数瞬、仁がいた場所に荒ぶる水流が押し寄せる。台風の後の水かさの増した河を思った。いやそれ以上に澄んでいて轟々としている。仁は再び狼に追い立てられる子羊のように横へ横へと逃げる。水は仁のズボンの裾を濡らしながら、校舎の壁にぶつかり、グワンと戻ってくる。そこでまるで夢のように跡形もなく消え去る。津波とまで行かずとも、部分詠唱だけでこの威力。恐らくは邪道なのだと分かったが、それでも実戦向きである。全魚人の攻撃を一、二受け流している間に本体があれほどの短時間であの威力の魔法を打ち込んでくるのだから。
「……さすがは青の幹部ってとこか」
仁は冷えた肝の辺りを撫でながら言う。ミルフィリアは妖艶に笑う。
「でも…… 何でこんなまどろっこしいことするんだ?」
小さく呟くように。ミルフィリアに聞こえるかどうかもあやしい声量。だが、ミルフィリアは僅かに顔をしかめた。懐から短刀を抜き、勇猛に仁へと駆けた。
素人剣法もいいところ。ブンブンと振り回すだけの短刀は空を切り、時折村雲と対峙してもすぐに力負けして弾かれる。役割を奪われた全魚人も、表情などは作れないが、困惑もあらわに主の錯乱をただ見ているだけだった。鬼気迫る表情で小刀を逆手に持ち、仁の顔目掛けて思い切り突いてくる。表情を強張らせた美人はマネキンのように無機質に見えて、仁は背筋に汗を感じながら刀を水平にしてそれを受けた。今度は渾身の突きが村雲の体に食い込むようにして拮抗する。鍔迫り合いの最中、ミルフィリアがぐっと顔を仁に近づける。
「……いつまで経っても学園を襲撃しない私に、裏切りの容疑がかかっています…… 監視もついています」
少し紅潮した顔で囁く。仁に向き合ったまま、目だけ動かして学園の外に向けた。いかに仁とて、どれだけ離れているかも分からない、まして緑の魔術師ならなおさら、人の気配を気取るのは不可能だ。
「なるほどね…… にしてももう少し上手くやらないと、手加減してんのがバレるぜ?」
淡々と返した仁も囁き声。
「それはアナタも同じでしょう?」
そう、武芸の素人であるミルフィリアが接近戦に持ち込んだ時点で仁は彼女を容易く斬り伏せることが出来た。そうしなかったのは、彼女の魔法の発動、精霊の攻撃、先のやりとりで手加減をされている、もっと言えば殺意を感じなかったから。
「ここからは上手くやって、この場はやりすごして下さい」
その言葉を合図に、仁は刀を膂力に任せて横薙ぎに思い切り振った。ミルフィリアが小刀を弾き飛ばされ、自身も衝撃に尻餅をついた。その脳天目掛けて刀を振り下ろす。
ザシュッ!
全魚人の体が脳天から真っ二つに裂けていく。血潮が間断なく芝に降り、茶を赤に濡らし、仁の顔を濡らし、庇い立てた主の顔を濡らしていく。踏み込んだ右足のジーンズが青から赤に変わり行くのをじっと見つめていた仁は、ミルフィリアが立ち上がり、距離を取るのを待っていた。
その時だった。
「やめろ!! 仁!!」
弾かれるように第三者の声に振り返った仁とミルフィリアは、中門から飛び出してくる坂城の顔を捉えた。