第二章 第六十九話:馬鹿
自分のことを思って言ってくれているのはわかっていた。兄としてはそれは正しいのだということも。だからこれは自分の我が侭なのだ。この気持ちは。
これ以上を望むのは今の兄妹の状況では絵に描いた餅。女の人と会いに行くのは嫌だから行かないで。素直にそんなことを言えたらどんなに楽だろうか。
兄として自分を慮ってくれる。それだけじゃ足りない? やっぱり我が侭だ。
平地よりも幾分寒い風をその身に受け、奈々華はもう少し温かい格好をしてくればよかったと今更ながらに思った。だけれど心の底ではそんなことも本当はどうでもいいと思っていることもわかっていた。風邪をひいたら、兄は看病してくれるだろうか。それともミリーと呼んだ女性と、或いは坂城と遊んでいるのだろうか。鬱陶しくまとわりつく妹が病気で動けなくなってせいせいするだろうか。だけれど心の底では兄がそんな薄情な人間ではないと思っていることもわかっていた。どうしても落ち込んで悪いほう悪いほうに考えが行く。
「はあ」
自分の溜息が思ったよりも大きくて、自分で吃驚した。木枯らしが吹きすさぶ中庭で佇むような馬鹿はこの学園に奈々華をおいて他にはいないようで…… 動物達は冬眠に備えているのか、昆虫達は死んでしまったのか。枯れた芝生と幹だけになった木々だけが占めるには中庭は大きすぎる。
「奈々華」
ふと声がした。風にさらわれることなく奈々華の耳に届いたのは、いつも聞いている、今一番聞きたい声だからか。校舎のほうを振り返った奈々華は笑むことも忘れ、兄の顔をただひたすら見つめた。仁は逆にやや力なく微笑んで、ゆっくりと妹の傍まで歩いて行く。奈々華がしゃがんでいる場所、芝生と校舎から続く岩の床がぶつかり合う継ぎ目まで歩を進めると、そこで立ち止まった。奈々華が見ているのと同じ、中庭の風景を漫然と見た。
「……ミルフィリアと会ってきたよ」
うん、と沈んでいるのか浮かんでいるのかわからない返事。仁はそれに構わず彼女から聞いた話の内容を奈々華に聞かせた。そして最後にこう締める。
「君の安全を最優先にしたから置いて行ったんだ」
「うん」
兄妹揃って何もない中庭を見つめる。乾いた落ち葉がからからと風にさらわれ、遠くでカラスが鳴いた。
「だけど……」
すっと仁が奈々華の隣に座った。手を伸ばせば届きそうな距離だった。
「もうこういうことはないようにするよ。約束を反故にしてまで行かなきゃならないようなことは…… ないようにする」
仁はぺたりと地に着いた奈々華の手の平をそっと見た。白く細い指先は鬱血したように赤くかじかんでいた。
「お兄ちゃんは悪くないんだよ。悪いのは……」
そこまで言いかけて、奈々華は自分の右手に覆うようにして温かい人の手が重なるのを感じた。ずっと外気に晒され、すっかり冷え切った指先がそれだけで再び体温を取り戻していく。驚いて指先を見ると、仁が左手をかぶせている。ゴツゴツした逞しい拳がそっと弱々しい自分の手を守っている。
「悪いのは俺だ。俺なんだ」
叱られた子供のように小さな声は少し震えていた。奈々華はそっと右手を開き、仁の左手に絡めた。温かい兄を、手の平一杯に感じる。今度は仁が驚いたように奈々華に目をやった。望んでやまなかった手を繋いで奈々華は、自分の喜びよりも仁のことを心配している自分に気付いた。気付いてそれを誇りに思った。
「大丈夫だよ。こうして私をまた包んでくれたなら…… 私はいくらでも我慢できる。頑張れる」
「奈々華……」
呼ばれた奈々華はうん、とさっきとは違う優しい声音で答えた。
「俺は何を恐れていたんだろうな。こうして手を繋いでいられるのに…… 怖かったんだ」
「うん」
「君はいつもそうして待っていたんだな」
「うん」
兄は妹の手を、妹は兄の手を。繋いだままずっと、暮れていく空を優しい笑みをたたえたまま見ていた。