第二章 第六十六話:エスプレッソ
不躾にまとわりつくようなクラスの視線をどうにかこうにか、耐え切った仁は放課を迎えていた。
仁も高校生だった頃、真面目に授業に出ていた日に限るが、この時間にこそ至福を感じていた。休み時間こそあれ、大学の授業とは違い、途中で一服なんてのは難しくどう足掻いても一定時間拘束されるこういう形式はあまりこらえ性のない仁にはかなりの苦痛だった。椅子に座ったまま一つ大きく伸びをする。
ピリリリ。
携帯電話の着信音が、同じように開放感に満ち溢れた教室の面々を振り向かせた。ほんの数秒前まで教卓の上で教鞭をとっていた社が苦々しげに仁を睨む。知らない番号だった。
「もしもし」
平気で取るのが仁らしいと言えば仁らしい。
「仁さんですか?」
ミルフィリア・A・高坂。友達にかけるように気軽な声音は豪胆と言おうか、不敵と言おうか。
「やあ、ミリーちゃん」
仁も然る者。一体どうやって自分の番号を知ったのか、なんて陳腐な返しはしない。
「おや、バッティングフォームを変えたのですか?」
「ボール球を振らないように意識改革したんだよ」
そこまで続いてしばし沈黙。<ミリーちゃん>と言う単語に飛びつくように反応した隣席の妹が何とも言えない顔で仁を見ている。
「……今日お時間取れますか?」
昨日も訪れたカフェに彼女はいた。黒いシャツに黒いスカート、繋ぎに白のベルトを強調させている。仁は挨拶もなく、対面の席を引きゆっくりと座った。ミルフィリアもちらとそれを見ただけ。まるで電車の隣に知らぬ人間が座ったような味気ない反応。早速店員が仁のもとへ、注文を取りに来る。昨日と同じエスプレッソを頼んだところを見ると、中々気に入ったらしい。
「……正直見誤ったと思います」
何が? と仁。ミルフィリアは肩をすくめて見せる。
「今日はマシな顔をしていると言っているのです」
「気のせいじゃないか? 今でも近藤さんのことを思うと辛いぞ?」
ミルフィリアは驚いて瞬きも忘れて仁を見つめた。彼女の見立てでは、そう簡単に本音を吐くような人間ではないはずだった。寂しく笑う仁からは、伊達も偽りも感じられない。
「ただ気付いただけだ。近藤さんを殺してまで守りたかったモノに。それも違うか…… 頭では最初からわかっていたんだ」
ちょうど白いカップを銀のトレイに乗せて運んできた店員が仁に彼のお気に入りと、頭を整理する時間を与えてくれた。
「でもあの泣き顔を見るまで本当に自分がやったことに、近藤さんを殺したことに意味があったのか、自信が持てなかったんだ。近藤さんの気遣いに、優しさに胸を張って答えられるか…… 貴方の命を奪ってまで守りたかったのは、この子ですって」
動かぬ証拠を突きつけられた犯人が胸の内を述懐するよう。だけれどもう少しそれよりも救いがあるとミルフィリアは察した。彼の顔には後悔よりも信念と覚悟が見える。
「……どうしてそんなことを私に話すんですか?」
純粋に疑問。
「俺が踏み込んだ質問を君にするからさ」
「……そう言えば遊庵に聞いたみたいでしたね」
ミリー。彼女をそう略して呼ぶのは親しい友人や家族。小学生から中学生に上がる頃、共に過ごした彼女の可愛い従姉妹。
「友情は遠慮と見つけたり、って人かと思っていましたが、それも違っていたようですね?」
見る目がありませんね、と自嘲するミルフィリア。クスクスと仁が含み笑いを返す。
「いや、全く持って優れた慧眼だよ。俺が無理に聞き出したわけじゃない」
そう言うと、両手の平を顔の近くで広げ、降参のポーズ。承服しかねると眉を寄せたのはミルフィリアだった。
「人見知りのあの子が……」
自分の知る、中々他人に心を開かない、難しい生き方をする少女ではなくなったということか。それとも……
「まあ兎に角だ」
そこで仁はいつになく真面目な顔を作って仕切りなおす。いよいよ本題。
「……ええ、以前お話しした私の個人的理由にも重なると思います」
仁を彼女の事情でも必要と言った。本当はもう少し時間が欲しかったのですが、とミルフィリアはそこで一口、自分の飲み物で唇を湿らせて間を空ける。仁はその所作をじっと見ていた。カタリとカップを受け皿の上に置く音とほぼ同時に、ミルフィリアは口を開いた。
「実は…… 貴方に私の父と母を殺して欲しいのです」
殊更感情を押し殺したような声で、ミルフィリアはそう言った。