第二章 第六十五話:純情少女
眠たげに目を擦りながら、学園長室で共に書類の整理をする木室に坂城が突拍子もないことを言った。深まる秋から冬に近づくこの季節、朝から冷気をふんだんに溜め込んだ室内には、室温を早く上げなければと躍起になる暖房以外に音を奏でる者は何一つなくなった。書類が手元からずり落ちそうになるのを、はたと冷静に帰った木室は慌てて受け止めるのだった。
「……もう一度言ってください」
「だから…… 私はあの男を好きになったのかもしれないと言っている」
「はい。病院ですね。すぐに手配致します」
そう言うとパサリと自分の事務机の上に書類を置き、携帯電話を取り出す。学園長室内には壁の左右に小さな扉があり、右は坂城の寝室。左は会社の一室と見紛うほど本格的なオフィスとなっている。
「ヒドイな…… 眠れなかったのだよ。アイツのことを考えていると一晩経ってしまった」
わざとらしく憎憎しげな目を作り、窓の外に目を向ける。木の枝の上で寒さに身を固めるスズメが室内を恨めしそうに見ていた。木室はのんびりと机の一番上の引き出しを開け、携帯をしまった。
「……」
「私自身わからんのだよ。恋というものなのか、単純に感謝の念がそうさせるのか」
坂城の家は現代に生きる貴族のような生活をしていた。両親が事故で亡くなった今でこそ、坂城は自由の身ではあるが、上流階級のお嬢様を絵に描いたように、対人関係はおろか外出もままならないという環境で育った。恋愛というものを知らずに、行く行くは親が決めた相手と結婚するはずだったのだ。
「本気で言っているのですか?」
そんな事情を知らぬ木室ではなかったが、それでもそんな言葉が口をついて出た。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味です。今更何を言っているのですかと」
木室は呆れ果てた顔で溜息を吐く。彼女がここまで遠慮なく坂城に接するのは、彼女が坂城の両親が存命であった頃から坂城の世話役として雇われていた身だから。
「随分前から貴方は仁さんに好意を持っていたと思うのですが?」
「……確かに彼には世話になっていたし、巻き込んだ手前気にかけてもいた」
タンと胸を叩いて請け合う。的外れもいいところの返答に木室は幼稚園児でも相手にしているよう。
「いいですか? 貴方は炎の巨人から助けられて以来、今まで彼のことを考えない日はありましたか?」
フルフルと首を横に振る。
「話がしたくて、会いたくなって、呼びつけたり部屋まで行ったりしたでしょう?」
コクコクと首を縦に振る。
「だがそれは友達としてかも知れん。昨日のは違ったんだ。どうにもこうにも頭から離れないと言うか、ずっと傍に居て欲しいとさえ思った。アイツの笑顔が目に焼きついたようだった」
ここでもう一つ、木室が一際大きな溜息をつく。つまりは想いをより強くしたらしい。いくら世間知らずに育ったとは言え、彼女も年頃の女の子。いくらなんでも自分の気持ちに気付いていないとはさすがに思っていなかったのだろう。立て続けに口から、はあと漏らす。アルコール探知でもしているようだ。
「抱きしめて欲しいとか、頭を撫でて欲しいとか、キスしたいとか思ったりはしていませんか?」
今まで客観的過ぎる自己分析を積み重ねていた坂城の顔がリンゴのように赤くなる。思い当たる節が有り余るということらしい。ついでにそういったことを臆面もなく口にすることに羞恥を感じる位の常識は備えているみたいだ。
「だがアレは私の理想とはかけ離れているぞ? もっとカッコ良くて、優しくて…… アイツも優しいな。面白くて…… アイツよりもっともっと」
論理も筋道もあったものじゃない。キョロキョロと落ち着きなく動く眼球は彼女の心の揺れそのもの。
「そうだ! タバコを吸うヤツは嫌いだ」
「子供ですか…… じゃあ彼は嫌いなんですね?」
途端に、逡巡もなくそんなことはないと来るのだから、木室の板についた苦笑は日頃の気苦労の賜物だとわかる。しかし木室は、まあ良かったのかもしれないと同時に思っていた。彼女の小学生のような押し付けがましい理想の男性像とは違うが、木室の中でも仁の評価は決して悪くない。悪い男に引っかかって、自分の幻想が砂上の楼閣のように脆く崩れて、深い傷を負うようなことになるよりは、どこまでも他人本位で危ういが、確かな優しさを持つ仁と恋仲になればいいと思う。
「それにしても…… あんまりウチの姫様を誑かさないで下さいよ?」
強いて言うなら階下に向けられたような言葉を吐き、なおも苦しい言い訳を並べ立てる坂城を無視して、木室は書類の束へと向かうのだった。