第二章 第六十二話:愛情、恋情、もつれてピエロ
「何だか嬉しそうだね?」
息苦しそうにコタツから顔を出したシャルロット。嫌がおうにも鼻歌混じりに夕食の準備をする奈々華は目につく。トントンとキャベツを切るリズムに合わせて下手糞な即興の歌詞まで付け始めた。
「おにい~ちゃんに~抱きついちゃった~」
重症らしい。くるりと飼い猫一号に向き直った手には包丁が握られたままで、勢い余って飛んできやしないかとシャルロットはひやりとした。
「わかる? わかっちゃう?」
「幼稚園児でもわかると思うけど……」
包丁を放り投げるようにまな板の上に置いた奈々華が、駆け足気味の速度でコタツに向かってくる。シャルロットをとっ捕まえて無理矢理頬ずりしだす。体を動かしていないと喜びが一所に溜まって爆発するのだった。
「実はねえ、お兄ちゃんが私のこと大好きだって」
一言もそんなことは言っていない。外出タバコ中の仁がもしこの場にいたら、取ってつけたような苦笑を浮かべることは想像に難くない。
「本当かい?」
と、ここまでは半信半疑ながらこれでようやく奈々華の恋が成就するのかと感慨深かったシャルロットだが……
話をよくよく聞いていくと、奈々華の脳内で美しく脚色された先程の一連の流れからは、そこまでの意図は読み取れない。むしろ大好きなら抱き返してくるのでは? と目に見えて落胆し始めた。
「アンタ幸せだよ……」
そんな言葉しかかけることは出来なかった。
「本当はわかってるんだよ」
打って変わって静かに紡がれた抑揚のない声。躁鬱を繰り返す精神病患者のような危うさを感じて、シャルロットは吸い込まれるように、奈々華を見上げた。
「……あの人はもう私に何も求めちゃいない」
「奈々華……」
「私に対しても罪を負ってるの」
何も知らない新入りのアイシアが話し声に目を覚ましたのか、コタツの反対側から出てきて、奈々華の膝の上にぴょんと乗った。サラサラとキレイな毛並みを優しく撫でる。
「……抱きしめてくれると思った」
打算も何もなく、ただ妹として、兄に感謝と謝罪をぶつけた。
「でも駄目だった」
機械のような目で、機械のような手つきで繰り返しアイシアの背を撫でる奈々華からは何か大切なものが欠落しているように思えて、シャルロットは口を開けなかった。
「私は償われるべき存在じゃなく、共に償う存在でありたい」
淡々と芝居の台詞を空で言うような……
「でも駄目だった」
ここまで聞いて初めて、シャルロットは自分の迂闊さを思い知った。奈々華は全てを分かった上で何も分かっていないフリをしていたのだ。大好きな兄が自分を心底では愛してくれていることも。それでももう自分を信じ、求めてはくれないことも。付きまとわれて困惑していることも。自分が求める兄妹像は勿論、最後に求める形が、霞むほどに遠く離れている現状も。全て分かった上で明るく前向きな恋する乙女を演じていたのだ。ピエロは奈々華もそうだった。
「少しでも希望を持たないと人は生きていられないんだよ」
決まって浮かべた微笑は笑んでいるようで、泣いているのだとようやっと理解した。
ふと笑った。それは慎ましく、それでも嬉しそうだった。
「でもやっぱり希望はあるんだよ?」
荒野に咲く一輪のタンポポを見つけたよう。シャルロットは奈々華の言葉を救いを求めるような気持ちで聞いていた。
「私のこと<お前>って呼んだ。<奈々華>って呼び捨てにもした」
シャルロットはその可愛らしい口をぽかんと開けた。肩透かしを食らったようだった。それがどうしたというのだと。そこまで思って仁が普段奈々華に対して他人行儀に呼んでいるのに思い当たった。だけどやっぱりそれがどうした、と目に込めた。
「……あの人は余程感情が乱れてない限り、余程自分が優位じゃない限り、ほとんど他人をお前とは呼ばないんだよ。<君>って言う」
クスッと無垢な笑い方は、言わんとしていることがよくわかっていないシャルロットにも安堵をもたらした。奈々華の膝上のアイシアも一層安心したように目を細めている。
「例外は親しい人。好きな人。多少礼を欠いても怒らないと判断した人」
普通のことなんだけどね、とまた笑う。そう、普通のこと。親しい人をお前呼ばわりするというだけのこと。妹を<お前>と呼ぶ兄。そんな世界中で有り触れたことがどうしてそんなに嬉しいのか。そこに仁の歩み寄りの意思を感じたから。付きまとうことに、共にいる時間まで拒絶する意志はもうないと。
「猫でも背中を撫でてもらいたい時はあるでしょう?」
最後はシャルロットではなく、アイシアに。されるがままに持ち上げられた赤い猫は、にゃっと短く鳴いて小首を傾げた。