第二章 第六十話:低気圧と高気圧
トントンと肩を叩かれた仁は、逃亡中の犯罪者のように素早く振り返った。かつて近藤が街中で仁を見かけるとそうした。思いのほか速い動きに、叩いたほうは驚いてその美しい二重の目を大きく開いていた。髪色こそは日本人らしく黒をしているが、顔の造形は外国人と見紛う。
「……奇遇ですね。こんなところで会うとは」
仁は内心マズかったと思った。完全に警戒を怠っていた。今しがた後ろから襲われていたら反撃もままならず、やられていただろう。それでもいいか、とも思った。
「どうしたんですか? この世の終わりみたいな顔して」
ミルフィリアは当てつけのように明るく、花咲くように笑んだ。別に、と逃げるように歩を進めようとした仁の前に回りこむ少女は笑みを消していた。
「お話しません?」
「……んな気分じゃねえよ」
退けと目で訴える。百人いれば九十九人は退くだろう憎悪すら滲んだ眼光だった。残りの一人は、微動だにせず仁の目を真っ直ぐ見返す。目を逸らしたのは仁のほうだった。
「近藤のことを思い出しましたか?」
ぴくりと仁の眉が動いた。さっきの振り向かせ方か、もっと根っこの部分を言っているのか判断がつかなかった。
「他人の冷たさに触れましたか?」
「……」
「立ち話もなんですね。あのカフェに行きましょう?」
まるで催眠術にでもかかったように、仁はミルフィリアの後をついて行った。
白いテーブルと白い椅子が瀟洒なデザイン。イタリア語の店名は気取りすぎか。アーケードの下に三セットほど設けられたテーブルに向かい合って座る。デートのように見えるのは傍目だけで、実際はきなくさい仕事の話をするのだった。仁もそう思っていた。
「ヒドイ顔をしていますね?」
「生まれつきだ」
運ばれてきたコーヒーに口をつける。漫然とした動作は見る者をけだるくさせる。
「顔の作りを言っているのではありません。それはご自由になさると良いでしょう」
「自由もクソも、これしか出来ない」
美容整形でもするのか、とシニカルに笑って、また一口カップの中を飲む。エスプレッソの苦味を噛みしめるようにしてミルフィリアの言葉を待った。
「……そんな顔をして、潰れていった人間を何人も見ました」
「だから?」
「人が人を殺せる確率は三割なんて言われています」
「首位打者のほうが打つな」
「三割は割りと図太い方」
もって回った言い方が、今の仁には耐え切れなかった。
「だから、それがどうしたってんだ!」
語気が荒くなる。対するミルフィリアは涼しい顔をしていた。
「貴方はそんなに広角に打ち分けられる人じゃないでしょう?」
「……知らん」
「耐え切れないんですよ。普通の人は。精神が崩壊してしまう」
そう言うと、空になったスティックシュガーの紙袋をわざわざ顔の前まで持ち上げてクシャと折る。
「お前は俺が弱っている様をあざ笑いに来たのか?」
低く唸るような声。怒りを噛み殺しているのか、もう怒りも湧ききらないのか。
「……穿ちますね。本当に偶然なんですよ?」
「……」
「忠告です。このまま今の生活を続けるのは得策ではありません。こちらに来なさい。なるべく汚れ仕事をさせないように私からも口添えします」
「……どうしてそんなに俺にしてくれるんだ?」
「おや? 惚れてしまいましたか? 罪な女ですね、私は」
大仰に驚いて見せる。初対面のときとは打って変わって軽口を叩くのは彼女のほうだった。
「冗談ですよ。そんな顔で睨まないで下さい」
「……」
「今は言えませんが、貴方は私にとっても必要な方なんですよ」
「……惚れたのはお前のほうじゃないのか?」
仁にやり返すという意思は感じられない。適当に言葉を紡いだような空虚さがあった。
「私にキツネを愛でる趣味はありませんよ。弱い人間も嫌いです」
「……」
弱い。彼女が言っているのは体ではなく、心なのだということは仁にもわかっていた。颯爽と立ち上がったミルフィリアが財布から一万円札を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。
「……今日はここまでにしておきましょう。快い返事を期待していますよ」
それだけを残して、少女は少女とも思えないような堂々とした歩で去っていった。
台風一過。静けさを取り戻したテーブルで、仁はいつまでも彼女の背中から視線を外せなかった。