第二章 第五十九話:脆く揺らぐ兄の弱さ
街をただ彷徨う仁は吸い込まれるようにパチンコ店に入っていった。騒音が自分の存在を消してくれることを切に願った。以前奈々華と街に来た際に宣伝をしていた新規オープンの店。パチンコ、スロット合わせて五百台近くはあるだろうか。中々大規模な店だった。パチンコ店のオープニングイベントにガセは少なく、皆浮かれたように筐体に向き合っていた。何を打っても良かった。
大当り完全告知台。筐体の上部に設置されたランプが鳴れば必然確変大当り。大当り後は回数限定の確率変動に移行する。そこでまた鳴れば大当り、確率変動……
仁が座った台は、一時間経ってもうんともすんとも言わなかった。釘も良く見ていない。球筋も追っていない。もっと言えば回転数も見ていない。当たろうが当たるまいが、回ろうが回るまいがどうでも良かった。ハンドルも固定していない。握るに任せ、折れた中指の痛みに任せていた。ただ自傷のように金を使い、この場にいる権利があればそれでいい。
「どうしちゃったんだろう? お兄さん」
小首を傾げる目黒は本当に分からないといった様子。奈々華は無言のうちに手に握ったままだった新聞を返した。授業始まっちゃうのに、と呟く目黒にもう帰ってこないよと短く答える。
「……私何かマズイことしたかな?」
「……」
奈々華すらも余り友好的な態度とは取れない。自分の席に鞄を置き、椅子を引いて座る。その所作からも言外に非難とも諦観ともつかない棘があった。どうしていいかわからない目黒はただその様子を見守っている。
「春ちゃんっていうか、クラスっていうかな」
説明も漫ろ。一時間目の授業の教科書を取り出す片手間のように答える。
「……いきなり英雄扱いだもんね」
「それもあるだろうけどね」
バンっと大きな音を立て、教科書の束を机にぶつけて整える。これ以上は何を聞いても答えてくれないだろうと判断したのか、目黒はそのまま何も言わずに自分の席へ帰っていった。ふと振り向いた目黒は奈々華が全く自分を見ていないことに気付いた。
私が守ってあげなくちゃいけないのに。
お兄ちゃんを傷つける者全てから。かつてそうしてもらったように。
今あの人は絶望の淵にいる。誰も信じられず、誰に甘えることも許されず。
あんなものじゃ足りないんだ。あの夜の抱擁は自分の胸を高鳴らせるだけ、自己満足に帰結し、彼の心を解きほぐすものたりえなかった。あの人の妹としての責務をこそ果たさなければならなかったのに。
お兄ちゃんは強い人。
誰よりも誰もを守れる強さと優しさを持つ人。
お兄ちゃんは弱い人。
誰よりも誰もを慈しむ弱さと儚さを持つ人。
優しすぎるんだよ。
敵にも事情を見出し、悪人の善所を探し出し、全てを守ろうとする。助けようとする。
誰かを守るということが、誰かを傷つけるということと等号だと知らない。認めない。
だからお兄ちゃんを支える人は絶対に必要なんだ。
それは私の役目だった。これからもそうでありたい。
不意に黒板の文字が滲んだ。ポタポタとノートの上に水滴が落ちる。周囲の席の人間が心配げな声をかけてくるのを、あしらうように軽くうけあって……
「私が泣いている場合じゃないんだけどなあ」
強がって浮かべた微笑は、泣くことも赦されない人へと向けられているべきだった。