第二章 第五十八話:下らぬ断罪
城山兄妹がクラスに顔を見せると、少し以前とは雰囲気が違っていた。
刺すような視線はなく、どことなく嬉しそうな、近寄りやすい空気を感じる。クラスメイト達は相変わらずチラチラと遠目に見るだけなのだが、そこに含まれる感情が嫌悪や侮蔑、畏怖から親近や憧憬、感謝みたいなものに変わっているのだ。
「……どうしちゃったんだろ?」
耳打ちするような小さな声で、隣の兄に囁く奈々華。仁もさあと首を傾けるだけで、真相はわからないようだった。すると二人の登校に気付いた一団の中から少女が駆け寄ってくる。目黒だ。飼い主を見つけた子犬のような顔をしている。
「おはよう、奈々華ちゃん。お兄さんもおはようございます!」
いつになく顔を紅潮させ、興奮気味に挨拶。人懐っこい子ではあったが、仁に挨拶をすることはあまりなかった。兄妹は困ったような顔で挨拶を返した。
「どうしたんだ? 俺の素晴らしさについに世間が気付いたのか?」
そんな馬鹿な、という顔をした奈々華を余所に、目黒が小さく頷いた。
「簡単に言えばそういうことです。コレを……」
スカートのポケットからくしゃくしゃになった一枚の紙を仁に差し出す。灰色がかった紙とびっしり詰まったワープロの字から新聞らしい。
巨星墜つ!
当私立中谷精霊魔術学園の生徒、高等部一年三組の城山仁の手により、遂に学園に平和がもたらされた。長きに渡り我々を恐怖と絶望の底へと閉じ込めていた敵、煉獄のヒューイットがこの度、彼の手によって倒されたからだ。彼はこれまでも同支配下の数々の精霊をその手で屠り、遂にはその元凶たる魔術師の魔の手から、当学園を解き放ったのだ。彼の勇気ある行動の恩恵に与る我々はここに最大限の感謝の意をもって報いなければならない。
記事を読む限り、学内新聞のようだった。仁を全面的に称える文章。
仁は隠し切れない怒りをどうにか、両手を力一杯握り締めることで爆発させずに内に篭らせていた。くるりと踵を返すと、そのまま教室を後にする。奈々華が後ろから悲鳴のように呼び止める声が聞こえたが、仁が振り返ることはなかった。
胃からこみ上げる液体を洗面器にぶちまける。黄色がかった液体はねちょりと白い洗面器の側面を伝って排水溝へと流れ着く。仁は乱暴に手を喉に突っ込み、もう一度声にならない嗚咽を上げ、残ったものを吐き出す。絞め殺されるガチョウの断末魔のような気持ちの悪い音が男子トイレ全体に響き渡る。
胃が痛かった。肺が痛かった。胸が痛かった。
見上げた鏡に、トイレの用具室が映る。その前に生気のかけらも見えない自分の顔を見た。血の気はすっかり引き、唇からだらしなく唾とも胃液ともつかない糸を引いている。不意にその顔が近藤の顔に見えた。最後の安らかな顔ではなく、自身の体を蝕む苦痛に歪む顔。苦しい、痛い。それに恐ろしく腹が立った。
「近藤さんは! 近藤さんは……」
苦しいとは言わなかったじゃないか。痛いとは言わなかったじゃないか。助けてくれとは、殺してくれとは言わなかった。勝手な妄想で穢すんじゃない。
俯いた先の洗面器は恐ろしくキレイに磨かれていて、仁はぼんやりと自分の醜い顔が映るのを見た。
目黒の顔が浮かんだ。クラスメイト達の顔が浮かんだ。
手の平を返したような短絡的な笑顔。気味の悪いモノが本当は自分達の利益になると分かった瞬間、両手ばなしで喜ぶ。利用する。笑う。褒める。
「……んなもんいらねえんだよ」
倒したんじゃない。殺したんだ。わかんないのか。馬鹿みたいに笑いやがって。相変わらず気味の悪いモノ、人を殺す化け物なんだよ。わかんないのか。
「こんなことの為に近藤さんは死んだのか」
体がわなわなと震え、どうにもならなかった。
ああああああ!!
絶叫とも慟哭とも悲鳴ともつかない雄叫び。気が付くと鏡を叩き割り、なくなった鏡の向こうの壁に狂ったように拳を叩きつけている。痛い。血が馬鹿みたいに吹き出ている。壁のタイルが割れ、コンクリートが見えてきた。灰色の薄気味悪い肌に赤がビシャビシャと塗りたくられる。ゴキッと鈍い音がして、仁の指が変な方向に曲がった。
「俺が殺したんだろうが! 俺が! 俺が! 俺が!」
口から吐いた液体が血に混じり、洗面器の向こうに顔は映らなくなっていた。