第二章 第五十六話:ブラックボックス
どうしたんだろうね、と奈々華は口ほどには気にした風もなく坂城の様子を思い出しながら言った。コタツの中に手を突っ込んだり抜き出したりを繰り返しながら、機嫌を伺うように上目に対面の仁を見る。仁はパソコンをカタカタ、ネット麻雀で遊んでいるようだ。持ち点一万点を切った辺りからかなり投げやりに打牌を繰り返している。
「アイツも色々あんだろ。わかんないけど」
投げやりなのは打牌だけではないようだ。ロンという機械の発声の後、仁が画面から目を切った。坂城はあの後、急用を思い出したとかで部屋を辞していた。
奈々華がなおも食い下がろうとしたところで、来客があった。コンコンと控えめなノックの後、上品な声がする。
「仁さん、奈々華さん。今よろしいですか?」
孫ほども歳の離れた奈々華にも決して敬語を崩さない老婦人の声だ。コタツからもぞもぞと這い出した仁が部屋の戸を開ける。黒いスーツを着た木室が、歳を感じさせないしっかりとした姿勢からぺこりとお辞儀をする。
「どうかされたんですか?」
仁は木室に対しては慇懃を崩すことはない。尊敬の念に近いものを抱いている節まであった。
「明日からまた学園に通ってもらうことになっているでしょう?」
「え? そうなんですか?」
「おや? 学園長から聞いてませんか?」
どうも行き違いがあったらしい。坂城の来訪は実はそれを伝えることも含まれていたのだろうか。
木室が来たのは、仁と奈々華の精霊を増やすという目的からだそうだ。更なる攻撃の幅を増やさなければ、この先の戦いにおいて遅れを取る事態も起こり得るということだった。仁も実際に近藤との戦いで、物理攻撃しかない自分の引き出しの少なさを感じていたので、有り難い申し出だった。だがそれだけではなく、複数の精霊と契約しているのが当然とされる高等部の生徒に負い目を感じることのないようにという気遣いが、彼女の言葉の端々に滲んでいて、仁は心が温まる思いだった。
奈々華が大岩に手を当てる。いつか見たように岩が光る。だが今度は白ではなく、ぼんやり赤い発光。木室の話では、精霊魔術師は複数の色に適性を持つのが普通だという。適性診断は眉唾ではあったが、人間は多面的であるという良い証拠なのかもしれない。
赤々と花火のような閃光の後、奈々華の傍にいたのは赤い猫。全身ペンキでも塗られたように、毛も耳も尻尾も赤。シャルロットのように翼が生えている、彼女の話ではそれは退化し忘れた飾りとのこと、というようなこともなく、全身がポストのように赤い以外は取り立てて特徴のない猫に見えた。
「……焔愛と呼ばれる中級くらいでしょうか、赤の精霊ですね」
猫が可愛らしい小さな口からボッとライター大の炎を出した。よろしくということらしい。奈々華はその様を見て、また炎を吐かれないかおっかなびっくり、それでも優しく抱き上げる。猫は奈々華の腕の中で大人しく目を閉じた。
「よろしくね。アイシア」
もう名前を決めたらしい。焔愛だからアイシア。猫がニャと短く肯定の意を返す。人語をどこまで解しているかは分からないが、どうやら話すことは出来ないらしい。
奈々華と猫の様子を見ていた木室が、一度優しく頷くと、仁に顔を向けた。
目を瞑り、岩に精神を集中させていく。あの猫はいくらか戦闘向きのようだが、仁は奈々華を戦闘に巻き込むつもりは全くなかった。ないどころか、きっと自分も闘うと言い出したら全力で止めるつもりだ。普段は奈々華の自由意志にあれこれ口を出せないが、それだけは譲るつもりもなかった。
「……出来たら遠距離攻撃が出来るようなヤツが欲しいな」
手に力を込める瞬間、仁は呟いた。自分がやらなければならないと自覚しているからこそのあくなき向上心が見え隠れする。
手の先から闇が広がる。黒い霧。薄目を開けた仁は嫌な予感しかしなかった。またしても黒の精霊。闇の眷属。一際大きく黒い闇が胎動するように溢れ出し、霧は晴れた。
見上げるような巨躯は鍛え抜かれた肉体美。青い体色はまるで見る者の顔色を投射したかのよう。静かな怒りを湛えた眼光にはえもいわれぬ恐ろしさがある。鋭い牙が覗く口からは、その肺活量が人間のそれを遙かに越えるものだと示すように、綿飴のような大きさの白い息が間断なく吐き出されていた。青鬼。
「……俺、こんなんばっかりか」