第二章 第五十五話:隠せない動揺
「それにしても良かった。生きていたか」
坂城は気を取り直してそう言うと、激熱のお茶にふうふうと息を吹きかけ始めた。
「そんな半日目を離したくらいで死んでたまるかよ。金魚じゃねえんだからよ」
仁はベッドから這い出ると、素早くコタツに足を突っ込んだ。一瞬奈々華のものか、坂城のものか、足と足が触れ合った。気色悪い笑みを浮かべて仁を見やる奈々華の様子から恐らく前者だ。
「……君は昨日侵入者と戦ったろ?」
ようやく飲めると判断したのか、湯飲みに口をつける。苦い薬でも入っていたかのように、眉間に皺を寄せてすぐに唇を離した。
「ああ、侵入者。それで心配して来てくれたのか」
「……別に心配したわけじゃないが」
奈々華はようやく坂城の行動に納得がいった。納得して顔を顰めた。あのテンパリ方からよくそんな嘘がつけるものだ。
「それで?」
坂城はことの顛末を促した。心持ち赤い顔は、奈々華の茶のせいか。
「確かに迎撃したよ」
「取り逃がしたのか?」
責めるような口調ではないが、困ったといった顔。仁は短くなったタバコを灰皿に押し付けながら、口内に残る煙を吐きあげた。部屋の中はモヤがかかったように白い空気が充満していた。
「戦意のない相手に、後ろから斬りかかるわけにもいかんだろ?」
「戦意がない?」
予想だにしない言葉に、坂城がぽかんと口を開ける。
「俺を勧誘しにきた」
メンソールを意味する緑色の箱に手をかけた仁は、坂城があまりいい顔をしていないのを見て、手を引っ込めた。
「かなりいい条件だそうだ」
「……」
坂城の顔が緊張に強張る。
「断ったよ。何だ? 俺が金に釣られてホイホイ寝返るとでも思ったか?」
「そういうわけじゃないが……」
随分ドライなんだなと思って、と付け足す。
「近藤さんもそういう契機だったらしい」
奈々華が過敏に眉を寄せる。坂城も仁と近藤の仲について詳しく知っているわけではないが、何となく顔見知り程度ではなかったと勘付いていた。だから黙った。
「丁寧に自己紹介までしてくれたよ。青の幹部らしい」
部屋の空気が完全に死ぬ前に、仁は話題を戻した。
「ミルフィリーテ? とか言ったかな」
「ミルフィリーテ……」
奈々華と坂城がほぼ同時に反芻した。奈々華は単純に女性の名前らしいと思って。坂城は……
「違ったかな。そうだ、ミルフィリア」
「……」
寝起きの細い瞼の下で、油断なく仁の流し目は坂城の表情を捉えていた。
「ミルフィリア・A・高坂とか……」
そこまで聞いた坂城は驚愕に顔を固めていた。
「どうしたんですか? 猿にアイスクリームを取られた観光客みたいな間抜け面して」
「……」
奈々華の言葉にはたと目覚めたように、坂城は取ってつけたような笑顔を浮かべた。一度唇を舐めて、なんでもないと返した。仁はその様子を見て、諦めたように口を曲げた。
「まあ、そんなわけだ。勧誘がてらやって来たフロイラインの幹部を追い返した」
それだけだ、と言ってちゃっかり手にしたタバコに火を点ける。坂城はそれに非難の目を向けるのも忘れて、ひたすら思い詰めたような顔でコタツ布団のクマと睨めっこしていた。