第二章 第五十四話:阿吽
ノックもなく部屋に侵入してきた坂城は必死の形相だった。バタンと大きな音に驚いて顔を向けた奈々華はそんな彼女を見て、仁がまた何かやらかしたのだと悟った。首を忙しなく動かして部屋を見回す。
「仁は?」
突然の訪問を詫びることもない。奈々華は鍵をかけ忘れた自分の不注意を呪った。ベッドの膨らみを黙って指差す。すやすやと安らかな寝息を立てる仁は、部屋の入り口からでは見にくい。礼を言うことも相好を崩すこともなく、猛然とベッドに歩み寄った坂城が仁の体を激しく揺する。
「おい! 起きろ、仁!」
二度、三度。横向きに眠る仁の肩に手を当て、首が取れるのではないかというほどに揺さぶる。仁は少し眉を寄せて、うーんと唸るだけ。坂城がなおも手を動かし続けると、仁は鬱陶しそうにそれを払った。
「……何だコレは? 全然起きないぞ。死んでいるのか?」
「生きてますよ。今野蛮人の手を払ったでしょう? 可哀想だからやめてください」
奈々華もあまりの不遜に少々腹が立っていた。目を合わせることもなく、冷たく言い放つ。
「……」
もう一度仁の肩に手を当てようとして、奈々華がそれを止めた。振り払うように奈々華の手から逃れた坂城の手首は少し赤らんでいた。
「……何なんですか? いきなり他人の部屋に入ってきて」
坂城はようやく冷静さを取り戻したようで、ふうと息をついて一連の行動を詫びた。
「実は昨日の夜、一人の守衛が中庭の方から剣戟の音を聞いたという報告が上がってな」
「……」
「別の守衛が何者かに気絶させられたとも」
ミルフィリアと名乗った少女が学園の外に出る際にやったのだろう。
「それで……」
仁が何らかの形で関与していると。もっと言えばその剣戟の奏で手は仁ではないかと事情を聞きにきたということらしい。
うるせえな、と低く呻くような声で仁が目を擦りながら、起き上がった。
「お兄ちゃん、おはよう」
坂城と対していた時とは全く別人になったような優しい声と柔らかい笑顔を浮かべ、奈々華が挨拶する。仁からはうんともああともつかない呻き声が返ってきただけだが、奈々華は笑みを崩さないまま、冷蔵庫から牛乳を取り出し、コップに注いで渡した。仁はいつも寝起きに牛乳を飲む。
「……サンキュ」
受け取ったコップを豪快にあおる。口の端から零れた白い筋が、仁の首下を垂れて服の、灰色のスウェット、中に入り込んでいく。予め予測していたかのように、奈々華は平然とティッシュペーパーを一枚差し出すのだった。緩慢な手つきで体を拭くと、空のコップを添えて奈々華に返す。代わりにタバコを受け取り、のろのろと火を点ける。
一連の動きを黙って見ていた坂城が呆れたように苦笑する。
「……君はそれでいいのか?」
人として、兄として。