第二章 第五十二話:影を追う猫
呑みに行くと残した仁について行くわけにもいかず、部屋でシャルロットと留守番をすることになった奈々華はありがたい忠告をもらっていた。即ち……
「付きまといすぎ」
シャルロットはこれに尽きた。急いてはことを仕損じる。
「そうかな?」
返す奈々華はそうは思っていないらしい。仁から貰ったヘアピンを左側の分け目に輝かせ、成果としてシャルロットに食い下がっている。
「それは単純にあの日の夜の礼だろ? 付きまとわれて良しとしている証じゃないんじゃないのかい?」
そして言葉に窮する奈々華。実際仁は礼と言って憚らなかった。
「でもでも、嫌とは言わないじゃん?」
奈々華がそう切り返すと、シャルロットは難しい顔をした。こう見ていると人間と比べても遜色ないほどに、表情は豊かなのだ。
「アタシが思うに…… アイツはアンタに弱みを見せたと思ってるんじゃないかね」
「そんなはずないよ」
「まあ聞きなよ。そのヘアピンには礼以外にも、ひょっとしたら口止めとしての意味もあるのかもしれない……」
「私がお兄ちゃんが泣いたことを言いふらすってこと!?」
自分が兄に不利になるようなことをするはずがないと言葉尻だけに憤慨する。息巻く奈々華を冷めた目で見やるシャルロットは、落ち着けと繰り返す。シャルロットとしてもあまり奈々華のやる気に水を差すようなことは言いたくなかったが、恐らく自分の勘が間違っていないことも分かっていたし、事実仁は窒息しかけて、今日は奈々華が付いて来れない場所に行ってしまった。このままこんな生活を続けても行く行く傷つくのは奈々華だということも悟っていた。
「あまり付きまとってくれるなって意味かも」
「……」
奈々華の表情が見る見る曇っていく。この様子だと薄々は勘付いていたのかもしれない。性急が過ぎると。
「アンタが犬だとしたら、アイツは猫だよ」
そうシャルロットは締めくくった。猫が猫だと言うのだから猫なんだろうと、奈々華はぼんやり思った。
<六ちゃんのバー>に足を踏み入れるのも、随分久しぶりだった。最初で最後に来たのは……
ドアを開けると、カランコロンと来客を知らせるベルが店内に響いた。今日は時間が早いこともあってか、店内に活気はなく、手持ち無沙汰の店員が仁をカウンターに案内してくれた。仁が椅子を引いて座ると、向かいの六ちゃんが挨拶をしてきた。
「僕のこと覚えてるんですか?」
驚いて言葉を返すと、六ちゃんは苦笑とも微笑みともつかない笑みを顔に浮かべた。
「……仕事ですから」
どれほどの客がこの店を利用しているかは知らないが、一度来ただけの仁を覚えているとは恐れ入る。
「近藤さんのお友達でしょう?」
心臓を鷲掴みにされたような気分だった。今度は仁が曖昧な笑みをたたえる番。六ちゃんはそれ以上は何も言わず、注文を待っていた。仁は厨房の棚を空虚な目で見回し、一番最初に目についた銘柄も知らぬ赤ワインを頼んだ。本当は一番最初に目に飛び込んだのはウイスキーだった。
「お仕事の帰りですか?」
何の変哲もない世間話。他意はないと分かってはいながら、仁はこの壮年のマスターが自分の素性を油断なく聞き出そうとしているような穿った錯覚に囚われていた。
「……ええ、まあそんなところです」
血のように赤いワインが入ったグラスが、仁の前に置かれた。ワインから目を切った仁は、改めてマスターに視線を配った。白髪がほとんどを占める頭髪に、年輪のように刻まれた深い皺のある顔には絶えず柔和な笑みを浮かべ、白いシャツからのぞく胸元は、歳相応とは言い難い筋肉質な体を想起させる。若い頃はヤンチャだったのかもしれない。堅気の人間じゃなかったのかとも。
仁はワインを二、三杯飲み干すと、勘定をして店を出た。
椅子から立ち上がる時、六ちゃんが何かを言ってくるのではないかと思ったが、またお待ちしています、とだけだった。近藤さんによろしくお伝え下さい。そんな言葉を自分は予測していたんじゃないだろうか。
「……案外そっちの方が楽だったのかも知れない」
自己嫌悪に陶酔出来たのだから。