第二章 第四十七話:浅慮を勝る真摯
「……これを見てくれ」
学園長室に呼び出された仁と奈々華は、仁はすっかり雑談相手になる気満々だったのだが、部屋に入るやいなや差し出された一枚の紙を訝しげに受け取った。紙面に目を落とした二人は、深刻な表情と無反応に近い表情。坂城が先程まで睨めっこしていた報告書だった。
「随分簡潔な文章だな。動機も手段も書いてない」
奈々華が仁の横顔に呆れたような視線を投げかける。問題はそこじゃないだろう。
「……お兄ちゃんをまた闘わせるつもりですか?」
奈々華の発言こそ正鵠を射ていた。
「……」
坂城は奈々華の視線から逃げるように、視線を仁にやった。逃げた先で、時折見る無表情に出くわし、所在無く宙に彷徨わせた。
「お兄ちゃんが思ったより使えるから、ダメもとでぶつけてみようってことですか?」
辛辣な言葉に殴られて、坂城はゆっくりと諦めたように奈々華の顔を見た。
「……そうだ」
沈黙。
「まだ先の報酬も貰わないまま、契約延長の申し出か……」
自分の話をしているというのに、呑気にソファーに腰掛けながら仁が言った。
「……虫のいい話をしているとは分かっている」
「ほんとですね」
「だが……君の力がどうしても必要だ」
坂城は突っ立ったまま、微動だにしない。奈々華が睨みつけるような顔をしてその横顔を見ていた。
「まあ、あの体たらくじゃ今度幹部が来たら秒殺だな」
「……」
歯を食いしばるようにして、坂城はその言葉に打たれた。坂城とて自分の無力を、ふがいなさを良しとしているわけではない。彼女にしても断腸の思いなのだ。
「君は体を張って、この学園を守ってくれた。キチンと契約を履行してくれた」
「……」
「その君に対して、今度はこちらの都合で契約の延長を申し出ているんだ」
彼女とて、まさかフロイラインがここまでこの地の大岩に固執するとは思わなかったことだろう。それでも、読みが外れた自分達の落ち度だと言い切る。責任者としての、学園を預かる者としての矜持と責任。
「そだね。俺としてはもう言い値、つまり十分な金を貰うことは出来たんだ」
これ以上この地に留まる理由はない。まして危険が差し迫っていると分かっている場所に……
「私の身を張ろう。そんなものじゃ足りないのは分かっている。だがこれくらいしか君の働きに報いる手段が見当たらない」
「……それは君が俺のものになるということか?」
奈々華が弾かれたように、仁の横顔に目を向けた。
「そうだ」
またしても沈黙。坂城は入り口付近に立ったまま、仁の後ろ頭を見つめ、奈々華は仁の隣に座って不安げにその横顔を見たきり。仁は何食わぬ顔でタバコに火を点け始めた。一瞬振り返った仁は、坂城の腕が震えているのを見とめた。
「……断る」
奈々華の顔が安堵に満たされ、坂城はこの世の終わりが来たと言わんばかりに顔を青褪めさせた。
「な、頼む! お願いだ! 君がいなければ私はこの場所を守れないんだ!」
仁はそっと立ち上がり、点けたばかりのタバコを灰皿に押し付ける。部屋の戸を向いた。奈々華も勝ち誇ったような顔でそれに続く。話は終わり。
坂城の横を通り抜けようとした仁の右腕に彼女の細い指が食い込む。
「待ってくれ。私はどうやってもこの場所を守らなきゃいけないんだ。両親が残してくれたたった一つの……」
打って変わって静かに紡ぐ言葉は、途中から震えだし、彼女の体も震えだす。俯いた顔から涙がポタポタと床に落ちていった。
その頭を、柔らかい猫毛を仁が優しく撫でた。
「最初っからそうやって泣きついて来い」
坂城が顔を上げた。赤らんだ顔、潤んだ瞳。頬には涙の筋がはっきり見えた。
「……ない頭を回すな。お前と俺は友達なんだ。少なくとも俺はそう思ってる」
そうだろ? と仁は細い目をより細めて、坂城の頭に置いた手をまた優しく動かした。
「友達が困っていたら助ける。それでいいんだ。お前の学園は俺が守ってやるよ」
そうやって大きく笑うと、仁は扉を開けて外に出て行った。奈々華が一瞬恨めしそうに坂城を見て、後を着いて行った。
「友達……」
一人残された坂城はいつまでも、仁が撫でていた場所を右手でなぞっていた。