第一章 第四十五話:女神の抱擁
日付が変わろうかという頃、仁は学園の一階、生徒用の大浴場にいた。当然他の利用者はおらず、うるさい刀もさすがに脱衣所へ置いてきた。造りは銭湯のように、全面を白いタイルが覆っていて、最大五百人収まるという大きな施設は今は仁の貸切状態だ。
仁は一人体を、頭を、顔を洗っていた。それで近藤を殺した罪が贖われるわけではない。単に汚れを落としているだけだった。顔をこすると、へばりついていた血が湯に溶けて、鮮血に変わって排水溝に流れて行った。
血がついたまま、泥がついたまま帰れば奈々華に色々と心配をかける。そんな格好で寝ないで、布団を洗うのは誰だと思ってるの? 怒られるかもしれない。
仁は存外自分の頭が冷静なのを自覚していた。夜の街で冷え切った体を温めるシャワーの湯が全身を伝うに任せ、仁はそんな自分も唐突にいやになった。
タイル張りの壁に、頭をゴツンとぶつける。
近藤を殺した悲しみさえ、罪悪感さえすぐに消えてしまいそうで…… 怖いのか?
ガツン。
二度、三度、四度、五度、六度……
いつか人を殺すことに慣れていくのが、少しずつ壊れていってしまうのが…… 怖いのか?
折角洗った顔には、新しく出来たデコの傷口から血が伝っていく。
…… 怖いのか?
排水溝に流れていく他人のものではない赤。
下着だけを履いて脱衣所に備えられた浴衣を羽織り、もと着ていた服をゴミ箱に捨て、仁は自分の居場所へと帰っていく。自分が望んだわけではないと言う場所へ。
「……ただいま」
鍵はかかっていなかった。
「おかえり!」
「……」
シャルロットが仁のクッションの上で勝手に眠っている。反対側のクッションには、いつかは十時に眠っていた妹が、兄の帰りを待ち続けていた。何食わぬ顔で座っている。既に見慣れた光景。
「……ご飯食べる?」
「いい。食欲がない」
「……うん」
奈々華はテーブルの上に置いた仁の分の食事を冷蔵庫に運び始めた。
「……」
奈々華が甲斐甲斐しく働く気配、仁と奈々華の話し声。シャルロットが眠たげに瞼を上げた。
「……おでこ怪我してるね」
「ああ」
絆創膏はどこだっけ、と奈々華が働く手を止め、部屋の中を歩き回る。目的のものを見つけ、ピリっと包装を破る音がする。
「……髪の毛、燃えちゃってるね」
「ああ」
「切りに行かないとね」
そのままじゃ変。喧嘩してきた子供を見るような笑顔。
「ああ」
「……服盗られちゃったの?」
「いや……」
「……」
「……」
「……人、殺しちゃったの?」
「……」
シャルロットが本格的に眠ろうと、ベッドへと足を運ぶ。いつの間につけてやったのか、チリンと小さく首輪の鈴が鳴った。
「……近藤さんだったんだ」
「……そう」
「いい人だった」
「うん」
奈々華が絆創膏を仁のおでこに貼ってやった。白くて細い手を、仁は泣き出しそうな目で見ていた。
「俺が…… 俺が殺したんだ」
「……」
「……」
「……私がまた、お兄ちゃんを一人にすると思ってる?」
「……かもしれない」
そんなことはない。そう言えたらいいのに。仁は未だに奈々華に弱い一面を包んでもらおうと思っている。暗渠には垂れ込まない月光を今も求めている。
奈々華は、今度は優しく包み込むように、仁を抱きしめた。柔らかく、子を愛おしむように。
仁は抵抗しなかった。出来なかった。
「私を信じて…… こんなこと言えた資格はないんだろうけど…… 私は仁君の味方だから。例えアナタがどんなに間違っても、どんなに汚れても……」
見上げる奈々華の顔は、その言葉に何一つ偽りがないことを証明している。女神のように微笑んでいる。
仁は顔を背けるのも忘れて、声を押し殺して泣いた。
第一章 世界の在り様と赤の生き様 了