第一章 第三十七話:ドM少女
自治体に委託された業者の男性に路上喫煙の罰金として、二万円を財布から取り出しているとき、仁は自分の携帯の着信音を聞いた。一昨日買った彼の携帯の番号を知っているのは、妹の奈々華と坂城、購入時に教えた行方と、先程交換した近藤だけ。仁が男性に、もうしませんと謝りながら携帯を開くと、ディスプレイには坂城遊庵と出ていた。
「もしもし」
「仁! 敵だ! すぐに戻ってくれ!」
敵襲。やはり今回も仁の留守中だった。逼迫した坂城の声音から、あまり時間の余裕はなさそうだ。
「……」
「聞いているのか!?」
「聞いてるよ。そっちには戻らないかも知れん」
「な、何だと!!」
仁が携帯を耳から大きく離した。
「落ち着け。心配はいらん」
「どこがどう……」
「本体を叩くんだよ」
電話口の坂城が息を飲む音が響いた。仁は涼しい顔でこう締めくくる。
「何も心配いらねえよ。あんた等の悪いようにはしない」
電話を切った仁は、緩慢な動きでそれをポケットにしまうと、首を一、二度鳴らして歩き始めた。
「私が悪いことはわかってるんだ」
ポツポツと弾き語りでもするように、奈々華は胸の内を、胸に抱えたシャルロット相手に吐露していた。
「……まあ、普通は兄貴の交友関係にいちいち口出す妹はいないからね」
わかれと言うほうが無理だし、わかってもらえても今の状態では九分九厘玉砕だ。
「でもさ…… もうちょっと」
「もうちょっと何さ?」
学園へと続く丘の途中、アスファルトに木の実や落ち葉が転がる道を一人と一匹は途方に暮れたように登っていた。いくら気まずくても、この世界に奈々華の帰る場所は、仁もやがて帰ってくるあの部屋しかないのだ。以前は祝福しているようにさえ思えた鳥の囀りを、奈々華は自分を嘲笑しているように感じながら聞いていた。
「もうちょっと……」
「優しくして欲しい? 自分の想いに気付いて、愛して欲しい?」
自分を抱く奈々華を見上げる。目には挑発するような色が浮かんでいた。
「……」
「自分だけを見て欲しい?」
「……そうよ。そうよ? 何が悪いの?」
「……」
「私はお兄ちゃんが好きなの! 法律なんて関係ない! お兄ちゃんじゃなきゃ嫌なの! それをお兄ちゃんにも求めて何が悪いの? 同じように思って欲しくて何が悪いの!?」
怒鳴るような声量で思いのたけをぶちまけた奈々華は、肩で息をしている。近くの木にとまっていた野鳥が驚いたように飛び去って行った。
「それだけ吼えれりゃ上等さ! また明日から頑張るこったね。仲良くなるには喧嘩は必須だよ」
アタシも応援してるよ、と丸い手を小さく握ってみせる。わざと怒らせて、激励に変える。最初のうちは中立的な立場を取っていたシャルロットも、奈々華の思いに触れ、その一応援者となる決意をしていた。
「……ありがとう。そうだよね。少しずつ仲良くなってって、それで最後は……」
気色の悪い笑みを浮かべる奈々華はどこか遠くのお空を眺めていた。
「アンタ、やっぱアイツの妹だよ……」
仁は奈々華の背中を視界に入れながら、少し後方を歩いていた。携帯の画面に一度視線を落として、舗装された道をはずれる。名残惜しそうに、それでも安心したように奈々華の背にもう一度目をやった。
「……行ってきます」
ざくざくと落ち葉の絨毯を靴で蹴散らしながら、仁は木立ちが途切れた場所に着いた。周囲の木は焼け焦げたように、黒ずんで幹半ばでその先を失っていた。人工的に、もっと言えば赤の精霊魔法によって作られた空間。
先客がいた。目を瞑り、指揮者のように手を宙に泳がせていた。仁に気付いているだろうに、慌てた素振りもなく、やがてゆっくりと目を開けた。白いシャツに水色のジーンズ。年齢の判断がつきにくい柔和な笑みは相も変わらなかった。
「着いて来ちゃダメじゃないか?」
余裕のある声音。まるで小さな子犬が後を追ってきているような……
「二時間ぶりですね、近藤さん」
暮れの空には、凶兆のように赤々と、太陽が輝いていた。