第一章 第三十五話:箴言とフィルター
「ああいう心に来る仕返しはやめようぜ?」
「先にやったのはそっちじゃん」
「何の話だよ?」
「……別に」
店を出てすぐに始まった二人の言い合いは、平行線を辿っていた。変なこと言うな、から始まって、そっちが悪い、に終わる。仁は自分の不実について一向に気付かないのだから、気付いたら気付いたで問題なのだが、解決を見るのは難しい。ただ最初は、奈々華に魔法を使わせた自分の失態を責められているのかと謝れば、そうじゃない。坂城と会ったことが、嘘をつかれたようで気に入らないからかと思えば、どうもそれだけではない。完全にお手上げの仁は段々、熱くなってくるのを感じていた。
「だから何で怒られなきゃいけないんだよ」
「……」
いざ理由を尋ねても、明確な答えは返ってこない。
「どうせ、本当は騙したと思ってんだろ。違うからな。マジでたまたま見つかっただけだ」
「それもあるけど……」
「大体俺が外でタバコ吸おうが、学園長室でタバコ吸おうが勝手だろうが」
口に出して初めて、仁は自分が失言を吐いたのだと気付いた。奈々華の目から涙が零れたから。
「そんなこと…… 言ったら」
「……」
そんなこと言ったら、家族は成り立たない。お互いを構い合い、お互いを知り合い、お互いを慰め合う、お互いを咎め合う。お互いが味方たりえる。だから家族なのだ。希薄になっていた兄妹の絆を取り戻そうと、歩み寄っているんじゃないかと、仁にも最近になって奈々華の行動に答えを見出しつつあった。
俯いたきり、体を震わせる奈々華に、仁は手を伸ばした。
奈々華の頭に触れかけたそれが、掴んだのは虚ろな空気だけだった。
それを頭上で感じていた奈々華が、弾かれたように仁に背を向け、走り出す。女の子にしては速い足を回して、あっという間に見えなくなる。奈々華とすれ違った通行人が、訝しげに振り返った。
「……追わなくていいのか?」
今まで黙って刀を演じていた鬼が平坦な声を出した。
「街中では話しかけんなって言ってんだろ」
仁も負けず劣らず、感情の読み取れない声だった。
「……俺が追って行っても何も出来ないさ。アイツが怒ってる理由さえわからないんだから」
「感情というのは難しいな。心にフィルターをかける」
「どういう意味だよ」
ズボンのポケットからクシャクシャになったソフトパックのタバコを取り出しながら、大して興味もなさそうに聞いた。歩道の端に「路上喫煙禁止」の横断幕が見えた。
「案外第三者の方が、物事の本質を見抜きやすかったりするということだ」
「お前はわかるってのか? 是非ご教示願いたいところだな」
そんなバカな、とわざとらしく口の端を吊り上げる。
「……それは我から聞くことではない。自分で気付くか、或いは妹殿が話してくるのを待つべきだ」
その答えを、ふんと鼻先で笑った仁がジッポライターの蓋を親指で押し開けた。
「主よ。過去に主等兄妹に何があったかは知らぬが、あまり一つの考えに固執しているといつか困るのは主ぞ? ゆめゆめ忘れてくれるな」