第一章 第三十二話:垣間見る狂気
ぶっ殺すこともなく、両手で子犬でも持つように<風の子供>を捕まえた仁は奈々華と共に、森の入り口まで戻った。そこには社教諭が待っている。生徒達が捕まえてきた精霊をあるべき場所に戻す作業と、不測の事態に備えているのだった。
「風の子供か…… 意外に地味な精霊を捕まえてくるんだな」
社という中年の男。全体的に痩身で、少し薄くなり始めた生え際と、神経質そうに吊り上った目。フレームのないシャープな眼鏡も近寄りがたい雰囲気を醸し出すのに一役買っている。仁に対してはあまり好意的とは言えない。
「……地味とか派手とかあるんですか?」
社は仁の質問には答えず、顔にある小さな引っかき傷を見つけて、嫌らしく口の端を吊り上げた。
「何だ? お前の妹は治癒も使えないのか? それとも治してもらえないのか?」
「治癒……」
「白の魔術師の基本だろうが」
ふんと笑みを濃くする。引き攣ったような顔は素直に醜かった。
「私……」
奈々華は未だ精霊を使役した魔法も、その力を借りて発動させる魔法も使ったことがない。仁の顔色を窺うように不安げに眉を寄せた。奈々華に笑いかけて、社に向きなおると不機嫌を隠そうともせず、目を細める。
「おい、いい加減にしねえと叩き潰すぞ。嬉しそうにハゲやがって。ハゲてる場合じゃねえぞ、コラ」
「お前……!」
社の声は怒りに打ち震え、あまりの屈辱に二の句を継げない。仁は捕まえた風の精霊を、そんな状態の社に投げつけるようにして渡して、踵を返した。奈々華も同じように身を翻す。
「待て! まだ話は……」
そこまで言いかけて、社は顔を硬直させた。顔だけ振り返った仁を見ると、瘧にでもかかったように身を震わせる。感情の欠片も見えない、蝋人形のような無表情。
仁の脳裏には社の細首を斬り落とすイメージが再生されていた。社が精霊を呼び寄せる間もなく、踏み込みながら抜刀して、首と胴体を切り離す。腕に聞いても、足に聞いても快い返事しか返ってこない。あんな貧弱な首なら片手で事足りる。
「……お兄ちゃん」
優しく諭すような声音で、仁に先を促した。仁はゴミでも見るような目で社に一瞥くれると、再び森へと歩を進める。
「化け物兄妹め……」
丸々一分を要してようやく口がきけるようになった社は、吐き捨てるように負け惜しみを言った。
「ありがとう。お兄ちゃん、私のために怒ってくれたんでしょ?」
幹の間を軽快に、舞うように足を運ぶ奈々華は、仁の前に回りこんでその顔を見上げる。嬉しさを隠し切れず、念願のオモチャを買ってもらった子供のように笑っている。
「あのハゲは元々気に入らなかったんだよ。自分じゃ何も出来ないくせに、嫉妬ばかりする」
そういう人間が俺は大嫌いなんだ、と苦い思い出を噛みしめるときのような顔で言った。曖昧な表情でそれを見ていた奈々華が、仁の頬に目をとめた。
「ねえ。治してみようか?」
そう言うと仁の答えも待たず、シャルロットを抱えて、何やら口を動かし始めた。囁くような声量は聞き取れず、どうやら詠唱しているのだとだけ仁は分かった。やがて奈々華の体をぼんやりと白い光が包みだす。
坂城のときに見た発光。どうやら発動する魔法の属性に応じて、体を覆う光の色も変わるようだ。
「白よ。偉大にして無謬の神が成せる業よ。我にその大いなる慈愛を分け与え、我が愛するものの痛みを取り払え」
その部分だけが聞き取れて、奈々華の体が一際大きな白に包まれて、元に戻った。
仁が試しに自分の頬を触ってみると傷はキレイさっぱり、最初からなかったかのようになくなっていた。えへへと得意そうに笑う奈々華。
「何となくやり方は分かってたんだけど…… ちょっと照れくさくて」
わが愛するもの。そんなフレーズを思い出して、仁は困ったように首の後ろを掻いた。