第一章 第三十一話:はぐれ精霊
前日、夜遅くまで熱にうかされたように饒舌に話しかけてくる奈々華の相手をしていた仁は、半分眠りかけていて、今から一体何をするのかよく分かっていなかった。
「はぐれ精霊だって…… どんなかな?」
仁の隣の席、十年来共に暮らしているというのに、未だ新しい友達に話しかけるように嬉々としている奈々華はちゃんと聞いていたようだ。
「はぐれ精霊?」
ガタガタとクラス総勢数十人が次々に椅子を引いて立ち上がる音がして、仁はようやく今日の授業がこの教室で行われるものじゃないと気付いた。
「聞いてなかったの? 今から裏庭の奥にある森の中に入って行ってはぐれ精霊を捕まえるんだよ?」
もう仕方ないな、と口ではブーたれているにも関わらず、奈々華の頬は緩みっぱなしだった。
精霊魔術師が、必ずしも召還した精霊を気に入るとは限らない。そういった場合、速やかにもといた世界に送り返すのが掟だが、実際に使役してみて気に入らないというケースもある。そういった場合にも、近くの大岩や所定の研究機関に行けば、返すことが出来るのだが……
全ての人間に倫理やルールを徹底するというのは難しいことであって、当然横着をして精霊との契約を解いて、契約の解除は一定期間精霊に定めた名前を呼ばないことでなされる、放置する輩もいる。
また、不慮の事故などで主人を失う精霊もいる。
そういった精霊を<はぐれ精霊>と言う。
はぐれ精霊は、その楔を解かれ、この世界で自由に行動する。中には物を壊したり、人に危害を加えるモノまでいるので、ここ私立中谷精霊魔術学園では定期的にそれらを捕縛、送還することになっている。
「学生ボランティアってやつだな」
授業の形を取っているが、そういうことだった。二人一組ではぐれ精霊の捜索に当たれとの指示だったが、仁が気付いたときには、まるで予定調和のように奈々華とペアになっていた。
「うん! 頑張ろうね」
微妙に会話がかみ合わない。面倒くさそうな仁と、仁とペアなら何でもいい奈々華。
大岩の裏から踏み込んだ森は、程よく葉っぱの落ちた広葉樹が立ち並び、随分先まで見渡せた。随分先まで同じ光景。絨毯のように落ち葉の広がる地面と、茶色い木立。
「何の変哲もない森に見えるんだけど、本当にこんなとこにそのはぐれ精霊とやらはいるのか?」
モミジのような形をしたユリノキの広い葉っぱをぱりぱりと踏み鳴らしながら、仁は木立の間を進む。<はぐれ精霊狩り>はこれが初めてじゃないのか、勝手知ったるといった雰囲気のクラスメイト達はとっくに見えなくなっていた。
「何でも大岩の近くまでは来れるんだけど、そこからは近づけないんだって。だからここらへんにいるのは間違いないよ」
「ふうん。何か可哀想だな」
そう言うと本当に悲しげな顔を作る仁を、奈々華も同情を禁じえないといった、それでもどこか締まりのない顔をして見つめた。憎まれ口ばかり叩く仁は実は誰よりも優しい。奈々華は嬉しくなって、時間が止まればいいのにと思った。
イテッという仁の小さな悲鳴がそれを終わらせた。
仁の右頬に小さな引っかき傷があった。少し血も滲んでいる。仁のすぐ傍、ピーターパンのような小人が空に浮かんでいる。背中にはトンボのような羽があり、のっぺりとした顔の作りをしている。
「……アレは<風の子供>だね」
今まで大人しく奈々華の腕の中で眠るように丸まっていたシャルロットが顔を上げた。
「風の子供?」
「文字通り緑の精霊さ。下級精霊だから言葉は通じないし、知能もそんなに高くない。イタズラ好きな奴等さ。放って置いてもそんなにヒドイ悪さはしないんだけど……」
シャルロットの視線の先には、木立ちの上の方まで浮かび上がったその<風の子供>を見上げる仁がいた。
「この野郎! ちょっとぶっ殺してやるから、降りて来い!」
あらん限りの罵声を浴びせて、近くの木に登り始める仁。
「……可哀想だよ」