終章 第二百四十二話:終わり待つ少女
奈々華の体が吹き飛ぶ。死に至るような傷は負っていないが、倒壊したビルの残骸に強かに背中を打ちつけた。「うう」と小さく唸る。坂城の追撃は止まらない。虹色に光る体は詠唱もなしに魔法を打ち続ける。それが彼女の、全色使う虹の魔術師の、真骨頂だった。奈々華もまたいつの間に覚えたのか、薄ぼんやりと白く光るホログラムのような魔法の障壁を体の前に出して防御をしていたのだが、排気ガスのように黒い気体が球状を成して押し寄せれば相殺してしまった。
「もっと早くこうしていればよかった」
坂城の声は、奈々華までは届かなかった。再び手の平から霧のように黒が浮かぶ。シャルロットが駆け寄り、奈々華の目前に小さな肢体を放り出した。
「仁は私を頼るはずだったのに、慰め癒すのは私のはずだったのに……」
「……」
奈々華はのそのそと緩慢な動きで立ち上がる。ミルフィリアを看取った仁が駆けつけるのも見えて、それはきっとぎりぎりで黒い球体が奈々華に走る前に間に合うだろうという速度だったが奈々華は立ち上がった。同じ男を愛する者として、坂城に遅れを取るわけにはいかなかった。
「妹のくせに、お前こそ幸せには出来ないだろうに」
「私はたとえそれが茨の道であっても、お兄ちゃんと手を繋いで歩ききる覚悟を持っています。でなければ実の兄を愛したりしません」
坂城の目が一際大きく輝く。今の今まで仁の心証を考えて手を下すことが出来なかった邪魔者に、怒りの鉄槌を下すその瞬間を思えばこそ、生涯でも最高に輝くのだった。
黒の魔術においては、坂城が仁を上回ることはなく、何か夕暮れの薄闇が夜の闇に包まれて消え去ったように見えるのと似ていた。仁の体は漆黒の闇に包まれていた。そこに飛んで来た黒い霧は吸い込まれるように同化した。
「ミルフィリアは死んだ。次はお前の番だ」
完全に脳内を凶暴が埋め尽くしたのか、はたまたラインハルトが見せたような虚勢か。顔も見えないほどに黒い霧は体を覆う。丸太鬼がかりそめを捨てて顕現した時を彷彿させるほど禍々しくて夜より暗かった。半端な色は全て塗りつぶして同化してしまいそうだった。黒の絵の具のチューブを全部パレットに出して、その上に何かを混ぜろと言うような無茶苦茶な濃さだった。
「……選択か」
しかし坂城が呟いたのは全く違うことだった。濁った目をしていた。
「選択だ」
彼女が強いたものばかりだったけれど、仁の答えはいつだって決まっていた。
「私ではなく、そいつか」
「お前ではなく、奈々華だ」
背後でよろよろと立つ妹に、仁は振り返って小さく笑った。坂城は大きな声を出した。何と言っているのかわからない。悲鳴に近かった。丁度仁がさっき腹の底から捻り出したものと同質だった。四方に六色の魔法を撒き散らして、残った建物の壁にぶつかって抉り、地に伏す死者にぶつかって抉り、混乱の中の白い球体が仁に向かってきたが、それは仁の黒の装甲をほんの少し削るに留まった。
「全部中途半端なんだ! 誰も! 彼も! 何もかも」
坂城の言葉の中で唯一意味が通るセンテンスは、悲痛だった。仁の圧倒的な黒に反対属性が効果を成さなかったことはきっと彼女の瞳には映っていない。映っていたとしてどうでもいい。中谷のようにはなりきれず、中途半端に人を求め、中途半端に賢いから木室の二面性を見破ってしまった。中途半端な優しさがミルフィリアの両親を歪んだ姿にして、彼女のエゴから嫌われた。坂城の両親については推し量るしかないのだが、きっと全て木室に教育を任せていたことから見るに、また彼女の片思いだったのかもしれない。中途半端に慈しまれて育った彼女は本物の愛を求めて、中途半端な方法をした。奈々華を殺すほど冷徹にはついぞなれず、僥倖を待つようなやり方は、中途半端だった。
「……楽にしてくる」
そっと言った仁に、奈々華の返事は聞こえなかった。
「ごめんね」
彼女は確かにそう言った。
黒い刃は生命力を根こそぎ奪うようなえげつなさがあった。太陽を遮る厚い雲のように思った。どんな生命も生きてはいけない暗闇の世界。誰に言われたわけでもないのに、俺の体からは黒い霧が溢れ、思えば村雲の忘れ物なんじゃないかという気さえする、それを静に纏わせた。そしてそれを坂城の胸に突きたてた。ごふっと鈍くむせて、坂城の口から血が飛ぶ。顔にいくらかかかって、急に冬の寒さを思い出したように、頬にぬくもりを感じた。近藤さんの最期を思った。こんなに冷静ではいられなかったな、と思い出している。「人は慣れる生き物だから」
「……仁」
名を呼ばれた。いつからだったか、奈々華と識別するために苗字で呼ぶのをやめたのだと思った彼女の瞳に特別な熱を感じはじめたのは。彼女の体はもう自重を支えきれず、俺に抱きかかえられるようにして凭れている。
「ああ」
俺だ。お前を選ばなかった男だ。はは、と小さく坂城は笑った。どんな感情から笑っているのか俺にはもう推測すら立たなかった。
「いつか君の腕の中で眠れる日が来ればいいと思っていたが……」
こんな形とは思わなかった。脳内で次の言葉を補完する。坂城はもう話すのも辛そうだったから。
「俺もお前と同じだよ。誰かに愛されるということを斜視して諦めて求めていた」
「なら愛してくれてもよかったろう」
愛に飢えて、愛に憧れた男と女が、互いに探り探り、見よう見まねに、互いを愛し合ってみる。痛みや孤独を知る両者は、互いに仁を持って向き合って、いつしか本物の絆が出来上がる。ベタで面白みがなくて、きっと最高に幸せだ。夢想しなかったわけでもない。それでも……
「俺はもっと大きくてあったかいものを見つけた」
選択、選択、選択。見てきたろう? 俺が奈々華を選ぶことなんてわかっていたろう?
「わかっていたさ。私じゃないことくらい。それでも欲しかったんだ」
何でだろう? 普通は次の恋に向かっていくだけで、こんな殺し合い……
きっともう疲れたんだ。一方通行を走り続けるのに。いつだって寄りたい店は、楽しそうな場所は、反対車線にあって、Uターンも出来ないんだ。わかる、知っている。ああ、そうか。この子にも俺は似た匂いを感じ取っていたのか。エゴイスティックな面じゃなくて、厭世と諦観はとても似ている。強すぎる力に宿命づけられた孤独も。俺が望んだんじゃない、こんな力なんて要らない。何度も思ったぶつける先もわからない彷徨う呪いは、きっと彼女も心の中で何度も呟いた言葉なんだろう。
「君は…… 君は死に場所を探していたのか?」
「ああ」
きっと「君にフられるまでは」という但し書きは、彼女の胸の中だけなのだろう。いっそ人外なら、体が二つにわかれるような力なら良かったのに。そうすれば奈々華の傍に居てやることも出来て、この子にも不器用で不恰好な愛を与えらたかもしれない。
「はあ。もう疲れたな。君の手で……」
静が水を得た魚のように妖しく光っているように見えた。じゃあ俺もこんな目をしているのか。右手を持ち上げた。左手はもう、価値のない同情を抱いた少女を支えているのか、獲物が逃げないように押さえ込んでいるのかわからなかった。
「終わらせてくれ」
ブシュッと鈍い音がして、目の前が真っ赤に染まった。