終章 第二百三十三話:最強の証明
「走り込みの成果もあったらしいね」
仁が直接手を下したわけではない。ラインハルトのランナーズハイ。いや、いつまで経っても動きの落ちない仁を相手取って自然体力の消費が早まったのかもしれない。完全にスタミナ切れだった。そこから彼のこの一戦に懸ける思いが軽々しいものではなかったことが伺い知れた。だがそれだけ。仁にしてみれば冬の寒さを吹き飛ばすような有酸素運動をしていたに等しい。麒麟は神々しさを失い、どこか所在無さげに地に膝をついた主人を見やった。
「祈る神はあるのかい?」
麒麟が道を譲るようにして仁から遠ざかった。十分な知性を持っているようだが、言葉は話さない。話せないのか話さないのかは、仁にとってはどうでもいいことではあったが、ただ一つ、バチバチと雷光を纏っていたその体から光はなくなっていた。どうやら帯電の方はラインハルトの仕業らしくて、ガス欠を起こした彼にはそれを保てなくなっていて、つまりは麒麟は今なら簡単に斬り殺される。その十分な知性がそういう判断を下したのなら中々に悲しい。主人の盾となるほどの絆は急造のタッグの間にはなかったことになる。仁はそんな麒麟に一瞥をくれて、そこには同情に近いものが宿っているように見えた、先の言葉をかけながらゆっくりとラインハルトに歩み寄った。
一瞬だった。ラインハルトの体が光り出し、その光に麒麟が吸い寄せられて行くその一瞬手前、仁の両手に握られた静が、ラインハルトの胸の辺りに深く突き刺さっていた。ラインハルトの体を包んだ光は、何事もなかったかのように立ち消える。彼がやろうとしたのは仁が幾度も見た禁忌。流石にそう何度も同じ手を食らってやるほど、仁は優しくも愚かでもなかった。馬の足も突如発生した磁場のような引力に、なす術なくバランスを崩し地面に倒れ込む。ラインハルトは口から尋常でない量の纏まった血を吐く。仁が彼の胸から刀を引き抜くと、そこからも堰を切ったように血流。それでも片膝をついたまま、尚震わせながら立ち上がろうという気概を見せる。彼を突き動かすものが、仁にはわからなかった。そこまでして守る自尊心にどれだけの価値があるのか。名家ラインハルト家の嫡男として生を受け、勝つことが、統べることが宿命づけられ、それだけがまた己の存在の証明だった彼の心中を仁が知る由もない。だけど理解できないからとて馬鹿にしたりするほど幼くもないので、仁はもう一度言葉を繰り返す。
「祈る神はないのかい?」
それも同じような心情から導かれる言葉だった。無神論者の仁にとって神に祈る習慣も気持ちも到底理解できないものではあったが、最期の慈悲くらいかけた。ラインハルトはしかし、胸を押さえ、何とか膝をついた姿勢を保つだけだった。見かたを変えればそれは祈りのポーズにも見えたが、それは違う。彼の双眸には強い光が宿っていた。見上げる仁を気圧そうとせんばかりに。
「外人さんは大抵宗教家だと思っていたけど、まあそれも人それぞれか」
そしてそんな心情を彼流の言葉で表すとこうなる。そしてそのまま刀を握る手に力を込める。
「じゃあ辞世の句を」
「……どうしてだ」
「あ?」
「どうして…… 勝てない?」
血反吐混じりとは思えない力強い声だった。虚勢も張り続ければ立派な強さになる。
「俺とお前…… 差は何だ?」
「……」
仁は黙ってラインハルトの強い瞳を見返していた。そこにもう侮蔑はなかった。現に「弱いと言ったのは取り消すよ」と前置きの言葉を吐き出した。
「それでも…… 俺より弱いからだろうな」
ふっと口元に笑みが浮かんだのは死にかけのラインハルトの方だった。短絡的な真理に笑わざるを得なかった。
「確かにそうだ」
彼の最期の言葉はそれだった。恐ろしい速さで刀が横に振られる。仁は虚勢を張ったまま、彼を逝かせた。