終章 第二百三十二話:ボアリング・マン
ラインハルトは口先だけの男ではなかった。前回の敗戦を踏まえて、戦い方を完全に変えた。精霊は一体、そして彼自身は十分に敵から距離を取って長い詠唱を経て強力な魔法を打つ。仁が中々思うように動けていないのは、その足止めの精霊がとても強力なためだった。一目見た仁は、ビールはあまり好きじゃないんだけどね、と軽口。麒麟に似ていた。馬のような下半身に、ヒヒのような顔。常に帯電しているようで、静の助言どおり触れることなくかわし続ける羽目になっているのだった。
「雷光走らば不逞を討つ。神鳴る時不浄は滅す」
そして間隙を縫って落ちる雷。地を這うように向かってくる雷電。仁が直撃も感電もしていないのは、その人の身に余る身体能力と、それこそ雷のように鋭い洞察の恩恵だった。地を走る電流を、瞬時の判断でラインハルトの側に退避することで事なきを得た。なるほど彼も人の身なれば、自身の魔法が効かない道理はなくて、自分の側へは走らないようにコントロールしているわけだった。それはそうなのだが、実際に初見でその動きを見せた仁には脱帽するしかない。
開戦から三十分。持久戦の様相を呈していた。
「あれ結構マズイんじゃないかい?」
シャルロットが呼ばれたのは、何も手助けできない奈々華の最低限の仕事だった。傷つけられたプライドを取り戻すために闘うラインハルトが、万が一にも卑怯な手を使うとも思えないが、念には念を。魔法が飛んできた日には、すぐに防衛できるようにしておかなければならない。
「大丈夫だよ」
奈々華は一笑にふす。シャルロットはまた疎外を味わったように、不承。
「アンタが心配する基準がわからんよ」
近藤や村雲との戦いにおいては、確かに奈々華は血相を変えて慌てたり泣いたりと忙しかった。なのにラインハルトとの戦いでは奈々華は終始余裕があった。初めて見た手品に首を捻るようなシャルロットに、「それじゃあ種明かし」と笑って言った。
仁がこちらに来て、奈々華と多少は会話をするようになった頃、敵について自分なりの見解を話したことがあった。それは奈々華を不必要に心配させないためなのか、真実なのか、疎遠が長かった奈々華には最初はわからなかったが、誰よりも彼の闘いを間近で見ていくうちに後者だと判断した。彼はこう言った。
「実際に人を殴って壊したことのない人間ってのはさほど怖くない」
それ以上は仁は語らなかったが、黒川のことがいやでも話題に上って奈々華に余計な気を遣わせるからかもしれない、その一言には言外に含むものが多すぎて、都度都度思い返す奈々華に雄弁に語りかけた。
人を壊す感触、極限のやりとり。言ってみれば、彼女等フロイラインにとって精霊を奪われてでも壊したい相手を壊した経験がないのだ。もし仮にそうなれば、彼女等は逃避を選択するのだろう。それじゃあ怖くない。鬼気迫るものがない。どこをどれだけ殴れば人が死ぬのかを彼女等は知らない。近藤や村雲との対峙に、仁が全力を注いだのは、彼らがそれを熟知していたから。仁がそれを悟るのは、体さばきであったり、全身から隠しきれず滲み出る雰囲気であったり、直感であったり。彼らは悲しくなるくらいに同族だから。
連関して多彩ではないのだ。彼女等の攻めは常に型にはまっていた。精霊を肉弾戦及び足止めに利用しながら自身は安全なところから遠距離攻撃を繰り返すに終始。スマートなのだろう。危なげないのだろう。格下の相手と戦う分にはそれでいいし、それが一番効率がいい。
「今ならもう少し話してくれると思うけどね」
奈々華は仁の一言とそこから感じ取ったことの全てを話してあげた。そしてそう締めくくった。仁がその時もう一言付け加えようとしてやめた言葉「ひりつかねえんだよ」と。家族と責任の狭間で揺れながら、それでも自分の身を捨てて敵を仕留めに来た男。忠誠と憎悪の狭間で揺れながら、それでも好敵手との激闘に心を躍らせた男。仁が笑っていたのは、嘲りではなく、歪んだ敬意だった。全身の毛が逆立ち、脳内麻薬が迸り、頭が真っ白になって、利害も敵も味方もなくなって、相手を討つ。それが彼の存在の証明だった。
「ほら」
誇らしげに伸ばされた奈々華の人差し指の先では、ひりつかない相手、ラインハルトが地に伏せっていた。