終章 第二百二十六話:バックボーン
仁は走っていた。タバコの影響か体力不足を痛感して、このところ仁はよく走っていた。それは戦いを控えた戦士が高揚を静めるために入念に行う素振りや武器の手入れに似ていた。いや、特にこの三日ほどは激しく走り込んでいたので、実際似ているというより同じなのかもしれない。
平日の昼下がりの市街は、勤め人もおらず、仁と同じような学生がプラプラしているのと時折すれ違うだけだった。快適な環境と言えなくもなかった。一つだけ彼が不満を持つとしたら、いつも着る上下黒のジャージではなく、全くの普段着だという点くらいか。坂城の部屋からその足で、山を下りた。
「……安直だな」
走り始める前、仁は苦々しく静にそう言った。静は何も言わなかった。安直というのは、性欲を抑えるために体を痛めつけるという発想を指しているのか。三大欲求の中でも睡眠欲というのは最も御しがたく二者に勝る。或いは彼の中に巣食い始めたどす黒い感情が、やり場をなくしたことと関係するのか。口では戻ればそれでいいと言ったが、相応の覚悟を伴った予定が泡のように消えて、簡単に割り切るのは難しい。彼の性格からすると後者が強いかもしれない。自分が苦心して取り返す、そのプロセスに自己満足が含まれていることに気付いてしまったのだろう。死者には着せようもない恩を売りつけず、無償で提供して悦に入る為のプロセス。
フードの下から覗く仁の鋭い眼光に、向こうから楽しそうに笑い声を上げて近づいてきた若者二人組が口をつぐんだ。
一しきり走り終えると、仁はスポーツドリンクを自動販売機で買い、街を後にした。いつもの坂道までの距離、仁も静も一言も言葉を発さなかった。
随分長い間走っていただろうに、さすがと言うべきか、膝が泣いたりもせず、仁はしっかりとした足取りでアスファルトを踏みしめる。
「……俺は」
仁が久しぶりに出した声は情けなく上ずっていた。喉の渇きや体の疲れや、心の疲れからだった。
「俺はこの世界に何しに来たんだろうな」
目だけは相変わらず前を向いたまま。しかしその瞳は弱々しく迷いを含んでいた。足を止めれば惑うのは、体だけではないのだった。
「生きてるヤツにも殺した人にも…… 俺は」
最後まで言いかけて、いややめようと打ち切った。静はその間喋っていなくて、まるで独り言だった。
「……妹さんと仲直りしたじゃないっすか」
しばらくして、もうとっくに話題は終わって学園の門が見えてくる頃だった、静が言った。「え?」と仁は一瞬何の話だかわからない。
「妹さんと仲直りしたじゃないっすか」
「ああ……」
合点がいった、という意味合いと、ああそんなことか、という拍子抜けの意味合いが合わさっているようだった。
「案外難しいものなんだよ。自分の中でどうしても譲れない一本の筋を見つけるってのは」
時折静が使う、若者を啓発するような口調を、仁は内心好いていた。
「魂って言ってもいい。それを持ってるヤツは何をやらしても強い」
「それが奈々華……」
顎に手を当てて熟考する仁の中には既に答えは出ていた。
「そうでしょう?」
頷いた。幾度となく直面した取捨選択に、仁は意識的に或いは無意識に、奈々華を選び取ってきた。
「だけど…… それはここじゃなくても出来たことで、俺が勝手につっぱってたから」
「きっかけってのは物事が進むのに意外とあなどれない役割を持っているんすよ」
パンと背中を叩いただけで告白が成功して、恋仲になった男女。吸ってみろよ、と中学時代の先輩が差し出した吸いさしの煙草。パチンと払われた救いを求めた手。成り行き任せに一つの部屋で同居を始めた兄妹。エトセトラ、エトセトラ…… 仁もわからないでもなかった。
「犠牲が多すぎる」
首を左右に振った。汗で湿った前髪は纏まって揺れる。
「確かにそうかもしれないっすね。こんなにハードな局面の連続の中でなくても、或いはゆっくり時間をかけて仲直りできたかもしれない」
「そうだろ?」
「でもアンタはそれでよかったかもしれないけど、あの子は限界だったんじゃないすか?」
やっとこさ辿り着いた鉄の門。くぐりながら仁は、奈々華が待つであろう二階の右隅に焦点を当てていた。泣いて許しを乞うた妹の顔を、縛り付けるように強く抱き締めてきた腕を、思い出しているのだろうか。