終章 第二百二十五話:妄想懐胎、偽善の限界
部屋に入ると、いきなり口がきけなくなる。唇を唇で塞がれている、と気付くのにそう時間はかからなかった。長い睫毛が涙に濡れていて、艶っぽくて、形のいい鼻からは強い息が漏れている。このまま状況に流されてしまおうかという弱い自分も確かに居た。だけど俺は帰る。奈々華と帰る。帰って何をする。あっちの世界に帰れば何かあるのか。自由はある。金はない。娯楽はある。恋人はいない。妹はいる。なんだ、一長一短じゃないか。でも帰るのか。そもそもどうして俺はこんなにも好かれる。それほどにこの目の前の女にとってこの場所は大事なのか。守ってくれる存在が必要なのか。それもフロイラインを潰せば終わる。じゃあもうそんなことは関係ないのか。女は馬鹿だ。ちょっと命を助けただけでこうも簡単に体を許すのか。俺にとっちゃ何てことはない。ただ刀を振るっただけなのに…… いや、馬鹿は俺だ。そんなことはわかっている。
「……仁」
荒い息で俺の名前を紡ぐ唇。異様に湿ったそこに俺の唾液も含まれている。いつの間にか俺は彼女の肩を掴んで引き離していたらしい。
「愛している。私にはもう……」
嘲笑すら出かける。全部嘘だとは言わんさ。だけど、お前は俺を怖がっていたじゃないか。君の姉を殺すとさえ思ったんだろう。そしてその恐怖は正しい。俺には確かに御しがたい凶暴がある。心臓の中に突然黒い、どす黒い液体がばら撒かれるんだ。それが全身を巡り、脳を支配し、手足に命令して、壊すんだ。だからお前を守ったんでも、学園を守ったんでもないよ。
「抱いてくれ。同情でも遊びでも良い」
無理だ。俺の偽善はそんなに簡単に崩れない。何て言うかわからないのか。
「友達を同情や遊びでは抱けないよ」
屑だ。恨むならこんな俺を好きになった自分の見る目のなさを恨め。もうそんな生半可ではないのにな。もう絶対に失いたくない者のリストに俺の名前も載っているのにな。わかっていてこんな言葉を吐くんだから救いがない。だけど、遅かれ早かれ俺の体はここではない場所へと帰る。一度抱いて満足するんじゃないんだろう。恒常的に求めるんだろう。
「どうしてだ? どうして!」
再び唇を重ねられる。重い、と頭が思ったときには体は床の上に倒れていた。胸のあたりに胸の感触。「私より幾らか女らしい体」なるほど。奈々華より大きそうだ。「変質的な男」なるほど。今度は明確な意思を持って、坂城の体を押し退ける。唇が離れる。蜘蛛の糸のように、唾液が唇間。
「俺はお前を愛してはいない」
婉曲は意味がないんだな。言葉の端々に脈がないことは滲ませてきたつもりだ。「友達」と明言したこともある。全部傷つけただけになったのか。ギザギザの鈍い刃で斬ったようだ。足をもがれた昆虫を思った。不意に他人事のような哀情が湧く。言葉の裏を読めないと、こんなに滑稽に踊るのか。腕を掴まれた感覚があって、手の平に柔らかく温かいもの。トクトクと少し早い鼓動が豊満なそれらを通しても伝わる。握り込まされて、手の平から溢れるような感覚。
「……遊びでもいいと言っている」
そもそもさ、お前俺に何か隠してないか? いや、やめよう。今口に出しても水掛け論になれば良い方。
「……遊びでは抱けないと言っている」
腕を掴む痛いほどの握力は、徐々に、力尽きるように、緩くなる。やがて自由を手に入れた腕は、少女の胸から離れていく。坂城の虫の泣くような声。「どうしてもか?」と聞いたらしい。冷たいな、俺は。だけど、元の世界に帰る俺に体を捧げても、それを受け取っても、それこそ酷いよ。無神経に刻むには余りに大きな快楽だ。
ガチャリとドアが開いた。ミルフィリアの顔が見える。俺は丁度少女の体の下から這い出したところだった。ゴミを見るように冷たい顔をしているかと思えば、優しい顔をしていた。全てを諦めた者のようだった。祐君の顔が浮かんだ。俺を赦すと言ったときあんな顔をしていなかったか。じゃあ俺の顔は救いを得たように醜く緩んでいるのか。
「……仁さん。もういいです」
立ち上がる。足にはすぐに力がこもり、上体は簡単にスッと伸びる。ああ、最低だ。大人に怒られた子供が、親がやってきたのを見つけたようだ。放棄。
「ああ、すまない」
何を謝っているんだ。謝るくらいなら最初から断るな。
「すまないね」
もう一度口が勝手に謝って、部屋を辞する。解放。部屋の外、いつも見る坂城の事務机が、懐かしささえ伴う。
最後に小さく、覗き見るようにして窺った坂城は涙を溜めた瞳を無感情に俺に向けていた。
そっと15禁にしときました。