終章 第二百二十三話:デジタル思考
行方の部屋は二階の高等部の学生が占めるエリア中頃にあった。何の予約もなしに、仁は戸を叩いた。相部屋だろう、行方とは対照的に化粧気のない少女が顔を出した。眼鏡をかけて染髪など無縁の日本人らしい黒髪を肩口で切りそろえている。
「すみません。行方さんを尋ねてきたんですが」
少女は少し眉を動かしただけで、「はい」と硬質な声で答えると、部屋の中をかえりみた。それが合図にでもなっているのか、行方が入れ替わりに顔を出す。こちらは今日も今日とてバッチリお化粧。
「私出てますから」
と相部屋の少女。玄関口の辺りで立ち尽くす仁は、行方が何も言わないでその背を見送っているので同じようにした。ガチャリと戸が閉まる音。
「真面目そうな子だね」
「ああいうのが性質が悪いのよ」
仮にも同じ部屋で過ごす相手に向ける言葉ではなかった。そうして孤立を嫌悪や優越で紛らわせているのだろうか、と仁は邪推するが、行方の表情からは感情が窺えなかった。
「必ず相部屋ってのも難儀よね」
自分からふった話題にも関わらず、もう仁はついていけず、弱々しい苦笑を浮かべるだけだった。
「お父さんの?」
申し訳なさそうに頬のあたりを掻いて、仁は頷いた。
「何でもいいんだ。君がAMCについて色々知っていたのは、君のお父さんの遺業のためだろう?」
「私は継ぎたいわけじゃないんだけどね」
その反発も仁は織り込み済みで、苦笑でやり過ごす。
「……資料とかないかな?」
行方は一瞬嫌な顔をしたが、やがて立ち上がると、自分の勉強用だろう、木製の簡素な机の引き出しを引くと数枚の資料が挟まっているらしいクリアファイルを手に仁の前に座りなおした。父親の遺産と呼べなくもないそれらは乱雑でも丁重でもなく扱われているらしかった。彼女の父親への複雑な想いが反映されているようだった。ジャーナリズムに命をかける生き様は仁には理解できないものではあったが、何か一つに全てをかける人間を退けてきた仁にとって、ただの紙切れでないのは確かだった。会釈するようにして受け取った仁は切り口から全てを取り出すと目を通し始める。行方はそんな仁をじっと対面から見ていた。
原稿用紙と写真がクリップで一まとめにされたものが数セット。十に届かないだろうか。AMCとフロイラインの同一性を示唆するためのものだった。誰かがやらなければいけないことなのかもしれない。世界は人が思うより複雑で、衆目に晒すことはいわば啓蒙だった。
「私が以前教えたようなことしかないわよ。もう絞っても叩いてもなんにも出やしない」
行方の饒舌は仕方がないことかもしれない。よく見ると、経年劣化とは違うインクの指跡なんかも端の方にあった。
「……これは?」
仁の手は止まる。写真や原稿にはラインハルトを追ったものが多かったが、毛色が違う資料が一つだけあった。彼の手書きの原稿ではなく、新聞記事のようだった。白黒の写真には旅客機が大破して炎を上げている姿が映っている。日付は今から二年ほど前のようだ。記事の方に犠牲者の名前のリストがあった。仁はそれを穴が開くほど見つめる。
「わかんないのよね。多分その事故にフロイラインが関わっていると踏んだんだろうけど。時期も重なるし」
「時期?」
仁が顔を上げる。
「それまでの記事を読んでみなさいよ」
読んでいるようで流していたらしい仁は言われてもう一度資料を見返す。真剣に字面を追っていく仁に行方も口をつぐんだ。アナログの目覚まし時計の針の音が焦燥を煽るように時を刻んでいた。
何度も礼を言って辞する仁に行方は複雑な顔をしていた。「もういいわよ」と中途半端な笑みを浮かべる。家族を顧みず、自分を貫き通した父の成したことが、犬死だと考えていた父の遺したものが、人の役に立つ。それが信じられないのか、気に入らないのか、誇らしいのか。
「……俺も親父に無理矢理剣道を習わされたんだけど、今となってはそれなりに役に立ってるんだ」
去り際、仁は突然身の上を話し出した。行方は何となく予期していたのか、困惑はなかった。
「親父が嫌いだからって剣道まで嫌う筋合いはないよな」
立場や事情は違えど、通ずるものは二人にはあるのかもしれない。なにせ行方は神妙に頷いていたから。
「ねえ…… 前から聞きたかったんだけど。あんたは何者?」
仁は天井に目をやり、少し考えてから、
「ただの学生だよ」
笑顔を残して、扉が閉められた。