終章 第二百二十話:刹那の愛すらその真贋を見極められない愛なき迷子
去り際、仁は振り返った。やはり変わらずミルフィリアは座ったままだった。
「……アイツ、お前の話なら聞くのな」
ミルフィリアは再び鉄仮面を取り戻し、仁を見上げた。
「私はあの子の傍に居ますからね」
抑揚のない声だった。こういうところが大人だ、と仁は考えている。ダメなところには容赦なく、良いところには人間味溢れる裁断を下す。
「……俺一人が居ないくらいで、あそこまで情緒不安定になるかね」
「まあ、確かに彼女はちょっと特別ですがね」
一気に喋りきらず、一度口内を湿らせるような僅かな間をおいて、
「それだけ貴方があの子にとって大切な存在だとは考え付きませんか? 居なくなると思うだけで心をかき乱されるほどに」
「……」
「貴方は面白いですね。それだけの力を持っていて、卑屈なんですから」
また少し区切って、
「かと思えばさっきみたいに貴方にしか出来ないことを、がむしゃらにしようとする」
掴みどころがないですね、と。話は終わりとばかり、ミルフィリアはソファーから腰を上げ、彼女等の部屋へと歩を進め始めた。そしてその途中で、立ち尽くす仁を振り返った。
「もう行きなさい。妹さんが待っているんでしょう?」
「告白されたの?」と聞かれると「そういうわけでもないけど、それに近い」と答える。奈々華は「お兄ちゃんって意外とモテるんだね」と嫌味ったらしく返してくる。意外と、の部分を強く言う。俺は愛想笑いのようなものを浮かべる。上の空というわけでもないけど、思考の大部分は全然違う場所を辿っていた。
奈々華と坂城はどう違うのだろう。この真っ直ぐ向けられる好意は、種類こそ違え、強さや価値は変わらない。いや、そもそも妹が兄に向ける親愛と、他者が他者に向ける情愛にどういう違いがあるんだろう。愛のない世界に生まれ落ちた俺にだけわからないのだろうか。根本は共にいたい、仲良くしたい。そんな単純な気持ちが共通していて、何が違うんだろう。キスやセックスということだけなのか。じゃあそれらをしないカップルは、絶対に愛し合っていなくて、兄妹なのか。そんなわけあるか。
そもそもどうして坂城を受け入れないんだ。奈々華と共に居たいからか。恋人が居ても妹と一緒に遊んでも何ら問題はないのに。そこで蘇る奈々華の悲しみに沈んだ表情。頭を振っていた。今は特にダメだ。やっとこさ兄妹の形を取り戻した今、彼女の傍には常に居ないとダメだ。それをこの子は望んでいる。思いながら奈々華を見つめていると、奈々華は気まずそうにはにかんでくる。
本当は怖いだけかもしれない。まるで心の深淵から、影が伸びてきたようにもう一人の自分の声がしたような気がした。それに体よく奈々華を口実にしているだけじゃないのか。子供のようにあどけない独占欲を「しょうがないな」と物分りの良いフリをして、大人ぶって…… この三年自由奔放な一人暮らしを堪能していた心の中に面倒くささや疎ましさが確かにあるくせに。自覚しているくせに。
本当は折れてしまっているんだろう。黒川を殺めた日、最も怖くて悲しかったのが周囲の変化だろう。手の平を返して呪詛の言葉を撒き散らす昨日の友人。ちょっといいなと思っていた異性。気にかけてくれていた教師。誰かを信じ、誰かを愛し、誰かに愛されることに、果て無き懐疑と嫌悪を植えつけられて、心が折れてしまったんだろう。そうして俺は、黒川のことより自分のことばかりを考えている自分の価値を大きく下げた。
だけどそれでも説明のつかないことがある。そう、奈々華だ。周囲と同様に俺を許さなかった彼女を今は信じているんじゃないか。共に居るなんて約束までした。奈々華のため、苦しめたことへの贖い、なんておためごかしはもうよくて、俺はこの目の前の子と一緒に居たいと思っている。俺が相手をしないものだから少し拗ねて鬼の少女と手を繋いで俺を置き去りにしようと歩を速めている、十七とも思えない子供っぽさを持ったこの子と。
過ごした年月か…… 結局そんなありきたりな結論になる。ありきたりだけど馬鹿に出来ない。たとえ一度突っぱねられていたとしても、それでも俺はこの子が悪い子じゃないと知っている。実際に離れていた間も、この子は仲直りのきっかけを探していたのも知っている。他人は怖い。猜疑や嫌悪を抱いていても笑う。わからない。怖い。だったら気心の知れたわがままの方が良い。所詮兄妹とは言え違う生き物。それは思い知った。まさかあれほど懐いていてくれたこの子に手をはね退けられるなんて思いもしなかった。だけど同時に思った。妹でこれなんだから全くの赤の他人の心の深奥などわかりようはずもない。だったら多少わからない部分があっても、少なくとも今この瞬間は自分を求めてくれるこの子と居たい。そんな逆説にもならない、消去法にも近い考え方。それでも今この瞬間は信じている。
「結局……」
奈々華は信じられるけど、坂城は、他人は信じられない。そういうことになるのか。