終章 第二百十九話:力押し
翌日、ミルフィリアからの呼び出しに、奈々華もついて行くと言ってきかず、仁は結局妹と鬼の少女と連れ立って学園長室のドアを叩いた。部屋に入ると、坂城の姿はなく、ミルフィリア一人だった。いつも彼女の妹がどかと腰を下ろすソファーに優雅な居ずまい。仁はチラリと目だけ動かして彼女等のプライベートルームを見やった。
「やっぱりダメか」
「ダメにしたのは貴方ですけどね」
返す言葉もなく、仁は了承も得ずに彼女の体面に腰を落ち着けた。奈々華と少女は遅れて、仁を挟むようにして座った。「何の話?」と尋ねる奈々華に、仁は力ない笑みを見せるだけだった。代わりにミルフィリアがうけあう。
「いえね…… 私の妹分が、変質的な性癖の男性に憧れを打ち砕かれたということです」
「俺は別に変質的じゃないよ」
「それは貴方の両隣を見ても同じことがまだ言えますか?」
「……」
「私は忠告したはずですよ? そういう気持ちがないのなら下手に近づくなと」
「……」
回りまわって結局彼の見捨てきらない優しさは優しさたり得なかった。
「まあいいでしょう。今日はそういう話でもないのでしょう?」
ミルフィリアの目は達観していた。仁は謝罪の気持ちを口にしかけて、一度口を閉じ、再度開いたときには渡米の意思を伝えた。
「渡ってどうするつもりなんですか? 場所もわからないんじゃないんですか?」
ミルフィリアはいつにもまして冷静だった。仁はいつもその冷静さが羨ましくもあり怖くもあった。まるで彼女の両親を彷彿させるような感情の見えない顔は、仁が時折見せるそれよりも何倍も完成されていた。
「国連の窓口で暴れてりゃなんとかなるさ」
奈々華ですら驚いた顔を見せた。彼の無計画ぶりはここまで来ると、尊敬の念すら抱かせる。AMCの全貌も組織図も知らず、それでも彼がやると言えば出来てしまうのではないか。そう思わせるだけの力がある。
「誰でも自分の命は大事だからね。いざとなれば恐喝すりゃ金髪のねぐらくらいわけなく話すさ」
圧倒的な暴力は立場も体面もぶち壊す。何も考えていないかと思えば、突然世の中の理を話すのだから不思議な男でもあった。
「パスポートはどうするんですか?」
彼にはこちらの世界において戸籍すらない。
「実は雀荘で知り合ったヤクザのおっさんが居るんだ。その人に金を積んで頼もうかと思ってる」
偽装、ということらしい。
「最悪空港の職員を買収してもいい」
へらへらと軽薄な笑み。やはりここらへんも行き当たりばったり。
「誰だって金は欲しいからね。それでもダメなら…… いざとなれば恐喝すりゃ飛行機に乗るくらいわけないさ」
流し目で兄を見る奈々華だけは、その無計画の裏に彼の本気を見ていた。仁は元来そういうことが出来る、そういう資格を持った数少ない男だ。言うなれば自分の意思を百パーセント実現できる、それだけの力を天から授かっている。彼は知っている。この世の中、周到にやれば必ずうまく運ぶとは限らない。だったらその身一つで勝負するのが、彼にとって最も確実な方法だと。普段からそうしないのは、そうまで無理をして叶えたい思いがないから。人との調和を身に染み付け、またそのやり方が一番賢くて疲れないから。
「どれもこれも犯罪じゃないですか」
脱力したような溜息と共にミルフィリアは言う。仁は「今更だろう」と取り合わない。彼が殺した人間の遺体を強奪しに行くという、その目的自体何一つ法律に抵触しないものはない。
「それにさ…… 約束を破ったのはむこうだぜ?」
仁がニヒルに笑うと、あれほど強固に無表情を貫いていたミルフィリアまで引き出されるように微笑を浮かべるのだ。
「そんな子供でもやるような不義理を、大人でもやらないような違法の数々を犯してでもとがめに行くんですね」
ミルフィリアの半ば諦めたような微笑には確かに少しの嬉しさがあって、仁はそういう冷徹を貫かない彼女に親近感を覚えているのだ。
「遊案と相談して、貴方が居ない間の学園の防衛が可能かどうか色々シュミュレートしてみます」
ついにはそういう言葉が出てくる。
「可能と判断したら、渡航の手段はこちらで用意します。その他便宜も少しは図れると思います」
仁はその言葉にしばし考える。記憶を探るようにミルフィリアの頭の辺りにぼんやり焦点。
「……そっか。助かる」
坂城にはお抱えの密偵が幾人か居るといつか仁に零した。その彼らはきっと独自の潜入ルートを持っているはずで、坂城は自前の船かジェット機でも所持しているのかも知れない。しかしそれを突くほど仁も野暮ではなく、礼を言うに留めた。