終章 第二百十八話:諦めの新婚旅行
精神的にも肉体的にも、仁は休息が欲しかった。ミルフィリアは言葉少なに、坂城は自分が何とか宥めすかす。明日また相談を持ってきて欲しい。その要点だけを伝えて、二人の部屋へと消えていった。身の振り方が決まった仁は退却、部屋へと帰って来たわけだが……
「香水の匂いがする」
上着をハンガーにかけた奈々華がぼそりと、しかし確実に兄の耳にも入るような声量で指摘したのだった。
「そろそろマジで怖いよ?」
「これは…… 学園長さんかな?」
にこりと笑って振り返る。彼女にかかれば探偵など無用。観念する以外の選択肢がない仁は諦めて首肯する。
「そうだよ。アイツが預かっててくれたんだ」
無事帰還を果たした鬼の少女は風呂も入らないままに、眠たげに目を擦っている。腰を落ち着けた仁の体に寄り添って体重を預けている。
全く後ろ暗い気持ちがなかったわけでもないが、奈々華に敢えて言わなかったのには、仁にしても言い分がある。
「実はあの金髪のおっさんをぶちのめしに行こうと思っているんだ」
奈々華と浮気論争をしても仁の旗色は限りなく悪そうだ。根本から話すことに決めたらしい。
「その相談もあったんだ。だからお前を置いて行った」
つまりそういうこと、と付け足す。
「相談するだけなら私も一緒でもよかったんじゃないの?」
「お前、アイツらと仲悪いだろ?」
仁はずばり婉曲表現も用いず。ここらへんはやはり兄妹の仲が好転した成果だろうか。
「……別に悪くはないよ」
「ついた瞬間にばれる嘘ってのはどうなんだ?」
「……」
ふうと呆れたような溜息は仁。
「本当は二人を説得して話すつもりだったんだけど、面白くなかったか?」
「面白くない」
今度は疲れたような溜息。
「難しそうな方から行ったんだがね」
「どういうこと?」
「君はどうせついてくると言ってきかんだろうから」
コクンと大きく一度。
「お兄ちゃんが私の知らないところで危ない目に遭うのは嫌だ、だろ?」
「似てない」
一応声真似をしたのだが、気持ち悪いだけだった。茶化すようで、更に挑発にもなってしまった。
「言っておくけど、お兄ちゃんが死んだら私後を追うからね?」
「怖いからやめれって!」
やり返したと判断したのか、奈々華はしたり顔で「冗談」と笑う。やはり目は笑っていなかったが。ゴホンと咳払い。仁の咽喉は大忙しだ。
「まあそこについては諦めてて、連れて行くつもりなんだ。少しそれとは別件で思うところもあって…… まあいいか、とにかくそういうことなら説得の必要性もないだろう?」
なるほど、と奈々華。「この子は?」と続けて、鬼の少女を指差す。もうすっかりオネムで、仁の膝枕の上で安心しきった寝顔を見せていた。
「いや、この子は置いて行こうかと」
奈々華の顔がやっとこさ本日はじめての本物の笑顔に変わる。
「じゃあハネムーン?」
「ハネムーンではないよ。確実に」
仁の否定は早い。兄妹間の呼吸。しかし奈々華が強かなのは、こういった冗談の中に本気を混ぜるあたり。
「何をしに行くかわかってるんだろう?」
「観光でしょう?」
お前なあ、と仁。しかし強く言わないのは、あえて本意を言わないのは、奈々華なりに気を紛らわせようと気遣っているから。
「思うところってのは?」
「今はまだ確実なことは言えない。考えがまとまったら話すよ」
質問したくせに、奈々華は興味なさそうに頷いた。どうやら彼女の気持ちは既に仁と二人で行く旅行のことで一杯のようだった。時折ニヤニヤとして実に気持ちが悪い。
「まあそんなわけだから、明日から準備に取り掛かる。出来たら今週中には発ちたい」
「はーい」と子供っぽく。彼女は兄のことを単純だと思っているようだが、実際には似た者同士なのかも知れない。