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終章 第二百十六話:不安定の爆発

少女は今は落ち着いて、坂城のベッドで寝ているらしい。「泣き疲れたのだろう」と坂城は言った。彼女の下へ届けられたときには、すすり泣いていたそうだ。仁はそれを聞いてただ不味そうに煙草をふかすだけだった。

「君をお父さんと認識しているのかもな」

きりきりと痛んだ胃には、煙草は猛毒で、仁は小さく咳払いをしてまだ長いそれを安物の灰皿に押し付けて消した。

「母様の気持ちが少しわかった。子供というのは本当に一つの感情しか表現しないんだな」

「……真剣なんだ」

仁は十分に言葉を選んで、

「だから怖くて可愛い」

それが締めになって、二人の間に沈黙が居座る。重苦しくはなかった。ただどちらもそれぞれの本題を切り出すタイミングを窺っている間だった。ピッチャーとバッターが間を取り合う風景に似ていた。どちらかがマウンドなり打席を外したり、投手は球を長く持ち、打者は入念に土を蹴った。だけどいずれ球は放られる。

「とりあえずあの子に顔を見せてやったらどうだ?」

一球外にはずしたらしい。次は内角にズバッと投げ込む布石にもとれる。仁は黙って頷き、互いに席を立ち、学園長室の右奥、プライベートルームへと入る。


あまりキョロキョロするのも失礼と思ったのか、仁は初めて入る坂城とミルフィリアの寝所に落ち着かない様子だった。生徒達の部屋とは違い、石を模した壁面には白い壁紙が張られていて、しかしボコボコした輪郭は浮かんでいなかった。不可思議だ。部屋は存外奥行きがあり、奥の方にはクローゼット。二人の居住スペースに間仕切りなどはなく、部屋の中ほどに平行線を作るように二つのベッドが向かい合っている。そしてその足側、つまり仁たちが佇む入り口に遠い方に、また向かい合って二つ机が壁に接して置いてある。あまり無駄な装飾品はなく、簡素と言えた。長方形の部屋だった。

「こっちだ」

坂城の声に、仁は目玉を遠慮がちに動かす時間を終わらせて彼女の後に続く。向かって右側のベッド。白いシーツに枕、その上に横たわる少女を、これまた白い羽毛の掛け布団が包み込んでいた。少女の褐色の頬には僅かに白い軌跡。瞼にかかる黒い髪を、仁は起こさないように優しくすくい上げた。

「ごめんな」

本当の父を殺した張本人をかりそめと知らず、父と認識する少女。無知は罪ではなく武器なのかも知れない。仁にしてみれば、きっと明け透けな怒りをぶつけられた方が楽だったろう。祐とは違った方法だ。彼女もまた同じ状況から、しかし彼女は仁を慕う。

そして仁は思い知る。彼女と祐では圧倒的に前者への罪の意識が足りなかったことに。どこかで、口をきかない動物を殺したのと同等の意識程度しか持っていなかったのではないだろうか。ちょっと可哀想なことをしたな、程度の。唇を噛んで少女の寝顔を見下ろす仁の胸に去来するのは自己嫌悪か。無垢は癒しではなく、武器かも知れない。仁は十分に知っているはずだ。口をきくものが、自律の意思をもつものが上等で、その逆が下等だと誰も言えないことを。人間が他者を貶める悪意を持って蔑みの言葉を吐くことも出来る存在であると。その安易で甘美な悪意から自を律せない意思など、口など、働かないほうが何倍もマシだというのに……

ふうと大きく息を吐いた。前髪が小さく揺れた。少女から坂城へ目を移した仁は既にいつもの仁だった。

「この子をまた預かってもらうことになるかもしれない」

仁はどうやらセットポジションについたようだ。

「……どういうことだ?」

「しばらく学園を離れたいんだ」

「……」

坂城は俯いてしまった。小さく肩が震えている。

「……つくのか?」

「は?」

声が小さすぎて仁は聞き取れない。坂城が顔を上げた。仁は気圧されるというより、怖気を感じた。また仁が見たことのない顔だった。目は異様にぎらついており、今にも目玉が飛び出してしまうんじゃないかというほど大きく見開かれていた。怒りより憎しみに近かった。赤い唇は紅のせいでもなく。

「嘘をつくのかと言っている!」

怒声。仁は一、二歩といわず、さがれるだけさがって、足をベッドの柵にぶつけた。顔は青褪めんばかりに恐怖と困惑。

「君はこれからも私に会いにきてくれるんだろう! ずっと! ずっと! ずっと!」

鬼の少女が喧騒に目を醒まし、それから仁の姿を見つけ、坂城の姿に怯えて、仁の腰の辺りに抱きついた。坂城は再び床を見た。仁はどうすることも出来ず、メデューサに睨まれたように立ち尽くした。やがて掠れた声で坂城は言った。

「……出て行ってくれ」

「待ってくれ。こっちにも事情があるんだ」

「出て行ってくれ」

強い語調。

「裏切り者の顔は見たくない」

「裏切り者って……」

仁は察せなかった。嵐は去ったわけではなく、台風の目に滞在していただけだと。少し冷静になった頭で仁は、その事情を説明するため食い下がろうとした。それがいけなかった。きっと顔を上げた坂城の顔は血走った目に涙を溜め、睨んだまま机の方へ動いた。その動きが異様に速くて、仁が呆気に取られたのも束の間、手当たり次第に物を投げつけてきた。ファイル、筆立て、スタンドライトまである。「顔も見たくない」だとか「裏切り者」といったわずかな単語は聞き取れたが、それ以外は言葉に、声にならない悲鳴のようなものだった。

仁はとにかく退散するより他なく、少女を持ち上げて腹の前で抱き、物が当たらないように、坂城に背を向けて入り口へと方々の体で逃げ出した。


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