終章 第二百十五話:浮き足、勇み足
「居なくなった?」
聞こえていないはずのない仁は、それでも聞き返した。奈々華は神妙に頷いた。
「ちょっと目を離した隙に…… 気付いたらもう」
「なるほど。それであんなに電話してきてたんだな」
腕を組んで今は言っても詮無きことを呟く。
「私が用もないのに、寂しいからってあんなに電話すると思う?」
「思う」
「……」
仁が帰った部屋には、彼の最愛の妹が一人。猫が二匹。欠員が一人。その欠員の行方が問題になっていた。赤ん坊も同然の彼女だが、身体能力だけとれば、実際の見た目と変わらない。歩くことはおろか、走ることだって出来る。しかしそれでも頭の中は赤ん坊。もし外に出ていたりしたら…… おかしな人間に捕まっていたら……
「まずは用務員さんに外に行ってないか聞いてみよう」
奈々華が頷き、「行ってくる」と駆け出す。日がな一日門の近くを見張っているわけではないので、確実な情報にはならないだろうが、それでも仁や奈々華に比べれば、彼女が万一学外に出ていたなら、それを目撃した確率は高い。もしかしたら保護されているかもしれない。
「さてと」
仁がいない間、奈々華がやっていたことは、学生への聞き込み。まさか何時間も見つからないとは思ってもみなかった彼女からすれば、大方部屋の外をチョロチョロしているくらいだろうと、そういう行動に出たのだった。そして何の情報も得られなかった。そもそも試験を終えて帰省する者が大半の時期、その残った学生がタイミングよく仁と奈々華の部屋から飛び出した少女を目撃している可能性は低そうだ。それでもそれはそれなりに有効で、学園の二階には彼女が居ないと見なせる。少なくともできる限りのことは、二階についてはやっているわけだ。
しばらく黙考して仁は携帯電話を取り出した。確かな手つきでボタンを操作すると、二回目の呼び出し音の後、相手に繋がった。
「ど、どうしたんだ。こんな夜更けに」
警戒の中に喜び。緊張の中に期待。
「ああ。悪い…… 実は昼間言った鬼の子供なんだが」
「ああ。そろそろ来る頃かと思っていたんだ」
声は弾んでいた。仁が怪訝に眉を顰める。
「何か報告とかあがってないか? 目撃でも良いんだ」
推測と言うほど大仰なものでもなく、正体のわからない子供を見つけた一般学生が取りうる行動として真っ先に考えられるのが、学園の責任者への通報、及び誘導ということになる。勿論学外へ出ていなくて、なおかつ学生に発見、保護されていなければ話にならないが。
「預かっている」
どうやら仁は一発で当りを引いたらしい。
「しかしあっちから連絡を入れてくれてもいいのにな」
仁の携帯の着信履歴には奈々華のものしかなかった。勿論メールも来ていない。当然奈々華の慌てようから、彼女へも何ら連絡がなかったことが窺える。
「まあ」
静は何か思うところがあるのか、無口モード。
「つっても俺がほったらかしにしてたからこうなったんだから、アイツを責めるのはお門違いだね」
そう、この事態になってこそ初めて出る贅沢。
「人の親ってのはこんな気持ちなのかね?」
「さあ」
スニーカーの裏が階段の一段一段を踏みしめるたびに、仁は喜びと安堵、後悔と叱責を噛みしめる思いだった。あらぬ杞憂に胃を痛め、わずかな可愛らしい所作に心の奥底をくすぐられ……
「妹さんはいいんすか?」
奈々華は居なかった。一階へと走っていった奈々華には、残念ながら無駄足だったが、メールをうっておいた。「見つかった。部屋に連れ帰るから待っていろ」との旨だった。
坂城が電話の最後に、奈々華が傍に居ないか聞いてきた。奈々華が坂城を嫌っているように、坂城も奈々華を得意としていなかった。仁は「居ない」と答えた。「一人で迎えに行く」とも言った。
「……ああ。明日するつもりだった話が今日になっただけだ」
どうせ、彼女等には会わねばならなかった。その会合に奈々華を連れて行ってもこじれそうだった。最後の段を踏みしめた音が、静まり返った三階の廊下にやけに大きく響いた。