終章 第二百十四話:清算クラッシュ
「いいんすか?」
静が言った。仁の胸の内側のポケットの中で、携帯電話が着信音を鳴らしている。
「妹さんでしょう?」
「そうだろうね」
気のない返事。とらないでもわかる内容。午後八時を回って、未だ帰らぬ兄を心配しての電話。荒い砂の乗ったアスファルトの上で、半身を翻すと、ジャリッと小気味よく靴裏が鳴った。もし電話に出たとして、どこに居るのと問われれば、「多分高尾山」と答えるのだろうか。何をしているのと問われれば、「多分返礼」と答えるのだろうか。しかし仁の携帯は、その持ち主が通話ボタンを押す前に、味気ない音を途切らせた。だからそういった疑問も立ち消えとなる。
場所は正しく、八王子の端。高尾山だろう。それでも仁が広畠に場所を指定されたとき、その名を口にしなかったのは、もしかするとあまり深く入れ込まない為かも知れない。此処が異世界だと強く認識しなおしたかったからかもしれない。言ってしまえば全て現実の自身とは何ら係わり合いのない夢物語として扱いたい気持ちの現われなのかも知れない。なるほどそうすれば、彼がこの世界を去った後、彼の非道の数々は彼を強くは苛まないかもしれない。
いや、或いは全く違うかもしれない。そういった自己欺瞞の姿勢が、より彼を惨めにするし、罪の意識からはどうやっても逃げ切れるものではないことくらい彼が一番良くわかっているはずだ。単に確証が持てないことを言いたくなかっただけかもしれない。
返礼と素直に言い切らないだろうと推測されうるのは、彼が決戦を前に悶々とした心のモヤを払いたくて体を動かしたのか、他意なく村雲の件で世話になった広畠に恩義を感じていたからかわからないから。
とにかく妹の心配を余所に、仁は確かな足取りで歩き出した。麓に停めた軽トラックに半身を滑り込ませると中から着替えを取り出し、その場で着替える。ぐっしょりと精霊の体液を吸った重いツナギを脱ぎ捨て、自身の服に。すっかり綺麗な出で立ちに直すと、仁は煙草を一本口に咥えて、車を発進させた。
広畠との待ち合わせ場所は、JR八王子駅だった。やはり仁は意図して視線を駅名に行かないようにしているような雰囲気があったが、造りは彼が知る八王子駅と酷似していた。改札を抜けた先の放射状に伸びる高架橋だったり、ごみごみとした駅前も。
その狭い道路の一角に停車して、仁は再び煙草の箱をあさる。上下左右にソフトパックを振るが、やがて苛立った舌打ちを出した。ドアを開けようとしたところで助手席側の窓がコンコンとノックされる。
「お疲れさん」
広畠は柔和に笑った。余所行きの笑みにも見えた。気が利く彼は仁の吸う銘柄のタバコを開けられた窓からポンと投げ込んだ。
「無理言ってすいませんでした」
仁は煙草の礼もそこそこに、紋切り型の謙虚を示した。
「随分急だったな」
仁と運転席を代わった広畠は車を出す。電車で帰ると言った仁に、そうそう見られやしないよと笑った広畠は中谷の駅まで送ると聞かなかった。「まるで逢引する芸能人ですね」と軽口を叩いたが、広畠はやはり小さく笑うだけだった。
「近いうちアメリカに発とうと思うんです」
「なるほどねえ。律儀じゃねえか」
「……どうですかね」
ははと苦笑。借りを清算するのが律儀と評されるのが、皮肉でも何でもないからこの世界は困る。少し嫌そうな顔をした広畠を見て、仁も前方を見る。大型トラックが車線変更して白い小さな軽トラックの前に出てきたところだった。
「信号が見えませんもんね」
「……ああ」
言っているそばから信号につかまったらしく、ゆっくりと前のトラックの速度が落ちていく。信号の色はおろか、信号機自体も見えない。先が全く見えない。広畠もサードからロウ、ニュートラルへと左手をせかせか動かして止まった。
「ああいうのに突っ込んだらどうなるかって想像したことないですか?」
「まず運ちゃんが出てきて、散々言われて法外な金をふんだくられるのかね」
返答は早くて、一度も脳内で試行したことがないというわけではないらしかった。ついでに可笑しそうに笑っていた。
「もし死んだりなんかしたら、家族は悲しんでくれるかね…… とか。相手を万一殺してしまったらそれこそ大変だろうな、とか」
前のトラックが一瞬下がって、それから動き出す。同じようにして二人を乗せた軽トラックも動き出す。
「もう帰ってこないってこともないんだろう?」
仁は煙草を一度深く吸い込んだ。ふうと吐き出すと、車内は白い煙で満たされた。
「……わかりません。あっちで全てが終わるかも知れませんし」
「それは死ぬってことか?」
「……わかりません。俺が死ぬか、相手が死ぬか。はたまたもっと凄い終わりを迎えるか」
「ぶつけてみるまでわかんないってか」
「奈々華は…… 妹は悲しんでくれますよね? 俺が死んだら」
「俺に聞くな」
「それもそうですね」
仁は灰皿に煙草を押し付けて道路を見た。中谷の街はまだまだ遠そうだった。