終章 第二百十三話:変質
雨が窓を打つ音だけが部屋の中に響いていた。雨足は存外強く、奈々華は兄がよもや外へ食事に行ったのではないかと、先にたたない後悔を胸の内で繰り返していた。ついと顔を隣に向ける。人間の見た目で言うと十歳前後に見える鬼の少女は、それでも生まれたばかりの赤子で、一日の大半を寝て過ごすようだった。あどけなく世の穢れも知らない寝顔は、相応に可愛らしい。半身を起こした奈々華のお腹の辺りに猫が一匹飛び乗った。普段はお散歩の時間だろうが、今日は雨天中止のようだ。
「随分と遅いご起床で」
皮肉るでも茶化すでもなく、言い放った。ややあって奈々華は「うん」とだけ返した。目は冴えているようだが、それ以上起き上がる気配はなかった。
「アンタの大好きなお兄ちゃんは、どうやら食堂に行ったみたいだよ」
一時間ほど前だろう。その後を追うようにふらりと出て行ったシャルロットはそれを確認してきたらしかった。
「そっか」
「起きてたんだろう?」
「うん」
奈々華の返答は、一々含むような間を残していた。変わらずコンコンと窓を打つ大きな雨粒。少女の小さな寝息を殺していた。
「怒ってなかったし、起こそうともしなかったね」
奈々華の声は平淡だった。少女の内なる小さな寂しさを殺していた。
「……仕方ないだろう?」
シャルロットは逆に言い聞かすように、慰めるように。
「……距離が違う」
そっと付け足した。トランプのタワーに最後の一対を足すように慎重な声音にも聞こえた。そう、距離。わがままと言ってよかった。確かに彼は彼女のすぐ近くに、彼女が望むまで居てくれるのだから。これ以上ない自己犠牲。
「わかってはいるんだけどね」
恋人の距離。兄妹の距離。ひょっとすると、あの思慮深い仁のことだ。わだかまり云々を抜かしても、難しい年頃の妹に積極的にスキンシップを図ることは憚ったのではないだろうか。そしてそれが恐らく彼にとって心地良い距離なのだ。
「まさか私も自分がここまで狭量とは思わなかったよ。まさかこんな小さな子供に嫉妬するなんて」
自分でも呆れた、と言わんばかりに口の端に笑みを乗せる。
問題はとてもシンプルだった。もっと触れ合いたい奈々華と、今の距離を保ちたい仁。きっと奈々華も譲歩していたのだろう、その切欠がなければ。
「嫉妬ってのはちょっと違うかも知れないね。語弊を恐れず言うなら…… ないものねだり?」
「アタシに聞かれてもね」
はあ、と短い吐息。背に息がかかったのか、シャルロットが反射的に体を強張らせる。ここらへんを見ると、本当に猫なのだと実感できる。
「まあいいや。今回はこんなもんでしょう」
言い終わると奈々華は手の平を打ち合わせた。パンと小気味いい音。弛緩を始めたシャルロットの体が再びピクリと固まる。
「どういうことだい?」
自身の動物くさい習性に、バツが悪そうな声で聞き返す。
「時間切れってこと」
「時間切れ?」
「そう」
布団をめくり、奈々華は体を起こす。その動きは確かで、彼女が何時間も前から頭を覚醒させていたことを証明している。
「これ以上望むのは現状では無理かな」
「一体何の話だい?」
シャルロットは、もう何も彼女を驚かすようなことを奈々華はしていないのに、三度体を硬直させていた。彼女が度々見てきた、主の異質。人格が入れ替わったような変質。それがまた顔を出すのではないかと、いつもの笑顔で背を撫でてくれる奈々華がどこかへ行ってしまうのではないかと。
「もうこの世界の役目も終わりが近づいているってこと」
にこりと、その笑みはやはりいつもと変わらず。変わらないからこそ妖しく。鬼の子が煩そうに寝返りを一つうった。