終章 第二百十二話:偏執
「君のテスト、採点した。進級は何とかなりそうだ」
無難な話題選びと言ったところか。問題の先送りとも言うが。仁は曖昧に笑って見せた。それからカップを顔の前で拝むようにして、奢ってもらった珈琲に口をつける。
「……」
「……」
まるで初めて出会ったかのように。二人は互いに会話の糸口を探しているようだった。特に仁は辛いだろう。「元気になったんだな」とも「もう平気なのか?」とも切り出せない。傷口をまた抉り返すことになりかねない。昼飯時を過ぎ始めた食堂からは人が次々去っていく。残る者もかき込むように食事を終わらせてトレーを返却口へと急ぐ。用事があるのか、学園のトップと随一の有名人との会合に居合わせるほどの役者ではないと知っているからか。
「そう言えば俺がパクッてきた卵孵ったんだぜ?」
「ええと。鬼のヤツか」
バイパスを通ってはいるが、話の選択としては仁も無難だ。おまけに感触も良さそうということで、仁の顔も僅かに安堵に綻ぶ。
「これがすげえ可愛いんだ。見た目は人間の女の子とさして変わんないんだけど……」
「女の子……」
「あ、えっと」
金属探知機も持たずに地雷原を駆け抜けろ、と言うのと似たようなものかもしれない。
「あの部屋で暮らしているのか?」
困り果てた顔で仁が頷く。
「狭いだろう。それに兄妹だから大目に見てきたけれど、女の子と君が共に暮らしているのは……」
「ちょっと待てよ。ある意味俺の精霊って言ってもいい。精霊と暮らすのがダメってのか?」
「それは……」
「それに大目に見るって、お前が最初に決めたんだろう。俺が別に奈々華と暮らしたいって言ったわけでもない」
むしろ個室を望んでいた仁に、そんな例外は許されないと突っぱねたのが坂城だった。
「そうだったな。すまない。許してくれ」
懇願するような口調だった。
「いや、別に怒ったわけじゃないよ」
そこまで言ってまた飲み物を呷った。仁がカップで隠すようにしたしかめっ面は、珈琲の苦さのせいではないはずだ。カップを放した彼はぼそりと続けた。
「ついでに言うと、怒ってるわけでもないよ」
「え?」
「……」
何か喋ってくれ、と。察してくれ、と。仁が間を作った意図は、坂城にはわからないようだった。
「ミリーに聞いたよ。俺は怒って君に会いに行かなかったわけじゃない」
「……そうか」
口の端に滲む微かな喜色。
「大体俺がラインハルトを取り逃がしたことについて、君を責めるのはお門違いだ」
憎悪に駆られた彼が、あの時坂城の存在を留意しなかったこと、ひいては周囲への警戒を怠ったことが主原因であろう。
「それについて」
「じゃあどうして」
二人の声は重なった。仁が話そうとした内容はラインハルトの追撃で、坂城が口に出しかけたのは……
「じゃあどうして私に会いに来てくれなかったんだ?」
仁が譲る格好になった。唇を噛んで歪んだ顔をした坂城に、仁は二の句が継げなかったからだ。
「それは……」
「辛かった。君にまで嫌われてしまった。君にまで去られてしまう」
「……」
「そう思ったら、胸が苦しくて、辛くて……」
「ごめん」
薄っすらと坂城の目の端に涙が浮かぶ。
「その…… そっとしておこうと思ったんだ。俺が幻創痛の時もそうだったけど、時間が必要かなって」
意志薄弱な仁が保留を選ぶのは殆ど予定調和と言ってよかった。
「それでも一言くらいあっても……」
「悪かったよ」
それ以上に何か言おうとして、仁はやめた。賢明だと思われる。彼女はより手元に残った者への依存度を増しているように見える。有り体に言えば形振り構わなくなっている。甘い言葉を囁いても、からかうような言葉を吐いても、今の彼女には全て安らぎを与える。
「それじゃあこれからは会いに来てくれるか?」
子供のような好意だ。河のように自然な流れだ。
「ああ」
「本当か!」
「ああ。明日にでもまた、その鬼の精霊を連れて遊びに行くよ」
どうしようもない男だった。結局その場で彼女を泣かせるか、後で泣かせるかの違いなのに。しかも後になればなるほど、共に過ごした時間は鈍く彼女を痛めつけることくらいわからないでもないはずなのに。褥瘡のようにジワリジワリと。本来心身を癒す場所が、逆に痛みをもたらすのなら、人は何処で心休まる時を過ごすのか、その答えは仁の中にはない。
坂城は何度も約束の確認をして、仁に取り付く島を与えないで、最後には雨上りの天道のように笑うと「明日待ってるから」と残し去っていった。
「……結局切り出し損ねたな」
一人きりになった仁は明日への不安と、再び静寂を手に入れた安堵の中で、そのどちらからともつかない溜息を吐いた。