終章 第二百十一話:ガラス細工
正午になっても奈々華が起きてくる気配はなく、仕方なく学生食堂に行った。ゲロが出るんじゃないかと思うほどごった返しているということもなく、今日明日中にも潰れるんじゃないかというほど閑古鳥が鳴いているということもない。つまりはまばらに人が入っている状態。パイプ椅子に腰掛けて、不味くも美味くもないカレーライスを頬張る。ジャガイモがやたら硬い。歯が折れたら訴えてやる。恨みがましく食堂で料理に励む職員に目をやる。そこで俺はふと気付く。慣れていたことに。奈々華が毎食ずっと作っていてくれる日常に。それも最初は申し訳なくて仕方なかったんだ。不出来な兄に手間を取らせるのが、可哀想にさえ思えた。
それだけじゃない。取っ掛かりの蔓を引っ張ったら、沢山の紫芋が地中から引き出されるように、過去のイメージたちが頭を駆け巡った。最初に無理だと思って、次第に慣れていった光景たち。
「人は慣れる生き物だから」
奈々華の言葉もついてきた。
例えば初めて共同生活の中で、妹の目を盗んで自慰をしたとき。無理だと思った。俺には俺の生活があって、奈々華には奈々華の生活がある。もう俺達は大人だ、と。
例えば便座の裏に小さな血の跡を見つけたとき。見てはいけないものを見たと慌ててそれを下げたが、それはそうだろう、と思った。どこの世界に六畳一間で異性の兄妹が共に暮らしているというんだ、と。子供じゃないんだ、と。
なのに、気がつけば何ヶ月も共に同じ部屋で暮らしている。鬱陶しいなと思うこともあれば、居てくれてよかったと心の底から思うこともある。良い事も悪い事も、慣れるんだ。
そして、頭の中でさえ言語化してこなかった感情にぶち当たる。
「慣れろよ」
じゃあ、お前も。自棄に近かった。どこまで最低なんだ、と心の底のもう一人の声を黙殺する。ジャガイモをフォークで割ると、勢い余って皿がガツンと音を立てた。
「慣れろよ」
今まで触れ合うことなんてなかったんだから。それが常態になっていたんだから、仕方がないだろう。加味しろよ。鑑みろよ。俺は慣れたろう。新しい環境に。
そのことによる恩恵も無視して。
ただ奈々華の責任だと言わんばかりに、思考は自分勝手もいいところに、奈々華を責め立てている。大体俺にこれ以上どうしろって言うんだ。譲歩に譲歩を重ねて今の環境が出来ているんだ。なのにお前はどうだ。やりたいことを全部して、わがままじゃないか。
ふ、と毒が抜けきった。黒ずむのは終わった。白が混じってくる。だから灰色が終わらない。
本当に簡単なことだった。少女を膝に乗せ、頭を撫でたり頬をくすぐっている間に、不意に見た奈々華の顔が全ての原因だった。羨ましそうにしているならまだ、よかったかもしれない。悲しそうだった。とても、とても。彼女の考えていることが手に取るようにわかった。今の自分にはどう足掻いても届かない場所、と知っている者の顔。羨望をやめ、諦めにも似た悲しみ。例えるならシンデレラが見つめる王子様。彼女が王子様のハートを射止めたのは、魔法で手にした美しいドレスのせいではない。
罪悪感。不甲斐なさ。俺は二度とあの子にあの顔をさせたくないと思っていた。思っていたのに…… させてしまった。
吃驚した。思考の底に沈みきっていた俺を、現実に引き戻す声だった。堅苦しい口調も、わざと少し低く出す声質も、よく知るものだった。呆然と見上げると不安げな顔が映った。それでも整った眉や綺麗な二重は健在で、少女の魅力を損なってはいなかった。珈琲の湯気が立つ紙コップを二つ持っている。
聞こえなかったと思ったのか、もう一度同じ言葉をその形のいい唇が紡ぐ。
「ここ、いいか?」
反射的に頷くと、坂城は小さく笑った。