終章 第二百九話:幸福追求権
「じゃあ行ってくるから」
「うん。すまないね」
「……」
「奈々?」
「……行ってきます」
奈々華は少女を連れて、店内へと入っていった。以前家具を買ったショッピングモール。そこに子供服を専門に扱う店舗も入っているのを、インターネットで確認したのが三時間ほど前。何やかんやと用意を済ました頃には、いい加減いい時間になっていた。夕食もここで済ますことになる。
「妹さんもコロコロ忙しいっすね」
幸い店舗の丁度真ん前に休憩用に木製のベンチが置かれていて、仁は半笑いを浮かべながらそこに腰掛けた。
「ヤキモチっすね」
「ヤキモチだね」
仁のその微苦笑のようなものは、この話題が済むまでは顔に貼り付いていそうだった。
「もっと可愛がってやればいいじゃないっすか」
「もう十分可愛がっているじゃないか」
「そうっすか?」
「日がな一日一緒にいて、たまには外に一緒に遊びに行って、あの子のやりたいことはほとんど許してるじゃんかよ。これを可愛がっていないってんなら、何が可愛がってる状態なんだよ?」
「……」
二人はそこで少し黙る。目の前を過ぎる人間が多くなってきた。仁が通う学園が少し早い春季休業に入ったことも関係していた。現に通路を手持ち無沙汰に歩く人間のうちには、仁の顔を見て足早に過ぎる中高生らしき年恰好の少年少女もいた。砂浜に寄せては返す波のように、周期的に人の動きは、示し合わせたように、ムラを作る。大衆心理というヤツなのか、単なる巡りあわせの妙なのか。そしてまた引いた。タイミングをはかって、仁が「あのさ」と口を開く。
「前にシャルロットに言ったことがあるんだけど、アイツに子供にするように接するのはおかしいって」
「おかしい?」
静が子供のように、愚直にオウム返されると、仁は大抵言葉に詰まった。誘導尋問が始まるようで。
「アイツは十七だからね、もう」
「あの子は二十七になってもああだと思うんすけど?」
「まさか! 勘弁してくれ」
咄嗟に噴出しはしたけれど、仁はすぐにその笑いを引っ込めた。
「あんた等の過去に関係があるんすか? それとも可愛くない?」
「可愛くないってことはないさ。あんなに懐いてくれてるんだから」
静が口を挟む前に、仁は「前者だよ」と吐いた。「お前には本当に敵わないな」ともこぼした。
「もう跳ね除けられるようなことはないだろうけどさ」
「……」
概要も説明しないまま。わからないならわからないで良いや、という気持ちなのか、この春秋高く、圧倒的な経験則を培ってきた相棒に全幅の信頼を置いているのか、仁は一から説明する気はないようだった。
「どうしても、体の方がね…… 撫でてやりたいと思っても、腕は引っ込んだりするもんだ」
彼にとってはとてもショッキングな出来事で、三年間ろくに触れ合うこともなかった妹に、仲直りしてはいそうですかと簡単にはいかないのも道理。
「心も離れてたんだ。一度思わず抱きしめたときも、少し後悔したくらいだ。今でも…… 多分あの子が求めているのは、そういうことなんだろうとは、思うんだけど。多分でしかないんだ」
「……」
思えば兄妹の触れ合いは、常に仁の受動、奈々華の能動。
「なあ。生存権て知ってるか?」
「いえ」
突如、仁の話が飛んだ。飛んでいるようで飛んでいないことを、静は既に知っていた。
「こっちにあるのかは知らないけど、ウチの世界では憲法二十五条だね…… すべて国民は、健康的で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、だっけか」
「いいっすね。いい理想論だ」
「だろう? これは幸福追求権なんて解釈もある」
「へえ」
「じゃあさ。奈々華のそれはどうなってたんだろうね?」
「……」
「子供にとって、家族と触れ合えないことは、果たして最低限度の生活が守れているのか……」
「……」
「俺がこの条文を好きなのは、これは国の義務として謳っているけど、人が人に接する、相手の尊厳ってヤツだね、それを守っているべきなんじゃないかって。人が人の最低限度を破っちゃいけねえと戒めてるからなんだ」
国が社会の拡大版なのだから。だから憲法に記載されている。最高法規。「人殺しのセリフじゃないんだけどね」と軽く茶化して、
「俺は奈々華に、その誰もが得るべき最低限度の生活を与えなかったんじゃないかって。思うんだ。多感な時期に、一人ぼっちにした。恋人や友達が、代替があったならいい。だけど、もしそれもなくて、俺にそれを求めて生きていたなら…… 家族は俺一人なのに」
また情けなく笑った。
「今も俺は、何もしてやれていない。ウジウジつまらない考えに囚われて」
「……」
「情けない兄貴だよな」
通路の向こうで、ポツポツとまた人波が形成されていっていた。
もう何年も前に得た知識ですので、間違っていたら申し訳ないです。