終章 第二百八話:誕生
通常、二人を出迎えるのは、シャルロット、アイシアの猫組。静を帯同していなければ、彼もそこに加わる。迎えると言うほど大仰なものでもないが、一応「お帰り」の一言くらいはかけてくれる。しかし今日は一味違う。静は待機しているが、猫二匹は連れ立って散歩にでも出かけているのだろう、その傍に見慣れない小さな子供がいた。褐色の肌があらわになっている。着衣がない。
驚きと同時に、その小さな生き物が何であるかを二人とも即座に察した。殻が転がっている。卵が孵ったのだ。小鬼の大人、という表現であっているのかはわからないが、少なくとも仁が見た個体とはかなり違う。目は人と同じ、二つ。体の作りも、人との相違を見つけるほうが難しい。
「……」
「おかえりっす」
「……ただいま」
辛うじて声を出したのは仁。
「静…… その子供は……」
「お兄ちゃんダメ!」
はたと何かに気付いた顔をして、大声を上げたかと思うと、奈々華は突然仁の目に手を当てる。
「わ! な、何だ。血迷ったか奈々華」
「妹さん。そんなに神経質にならなくても……」
「ダメ! お兄ちゃんの情操教育によくない」
女の子、と識別して間違いないようだ。勿論起伏のない体に、欲情するタイプに仁が該当するわけではないが。必死に腕を伸ばして、仁の目を塞ぐ奈々華の顔は、羞恥か体を動かしているためか、真っ赤だ。
「奈々。わかったから。俺は後ろ向いて退散するから、服を着せてやってくれ」
つぶらな二つの瞳が、兄妹を不思議そうに見つめていた。
だぼついた奈々華の服を着て、きょとんと見上げる仕草は、可愛らしいと意外には形容しがたい。仁も奈々華も途方に暮れていた。精霊の中で、人の言葉がわかるものは少ない。そして彼女はその希少な部類には入っていなかった。これは既に、成体のそれと戦ったことのある仁は理解していたことだが、実際面と向かって対した時に、これほど不便だとも思っていなかった。なまじっか人と似た姿をしていることも、コミュニケーションに諦めをつけきれずにいた。つまりは……
「名前はないのか?」
だとか。
「お腹空いていない?」
などと、ついつい言葉をかけてしまう兄妹の姿があるのだった。そして二人で顔を見合わせて落胆を確認する。特に奈々華はたまったものでない。アイシアのように猫ならば構わないが、意思の疎通が出来ないまま、そこいらで小用でも足された日には、仁の情操教育とやらに多大な悪影響を及ぼすのだから。
「じ・ん」
仁が切り口を変える。どうやら自分の名前を覚えさせようという意図。例の成体との戦いで、声帯が震えることはわかっているわけだから、不可能な話ではないのかもしれない。ないのだが……
「いい加減諦めたらどうっすか?」
静の言葉が一番冷静で、筋が通っている。数度繰り返したが、鬼の少女は口を動かすことすらしい。仮に知らない外国語を話す人間が居たとして、果たしてその彼、彼女の言葉を真似ようとする人間がどれほどいるだろうか。勿論語学学習で異国の地を訪れているだとか、特段の理由がなければ、人は困った笑いを浮かべてやり過ごすのではないだろうか。それは習得のメリットも、今一瞬その彼、彼女と話さなければいけない必要性も感じないから。
「小鬼に言葉で意思疎通を図る文化はないはずっす」
加えて少女の場合は更に複雑なようだ。そうなると、先ほどの例になぞらえるなら、仁の姿は、目の前で口を使って奇妙な音を出す異文化人に見えるのだろう。これではもう誰も真似などしようとは思わない。早くどこかに行ってくれ、だとか、どうして自分に絡むんだ、なんて非建設的な考えしか出てはこない。
「……文化ってのは、生まれ持ったもんじゃないだろう? 何とかならんか?」
仁の言うことにも一理ある。
「どうしてそういう文化がないか、は考えないっすか?」
「……」
奈々華が顎に手を当てて小首を傾げてみせる。対照的に仁は下唇を突き出して首を小さく振る。
「声帯が、或いは喉の構造が、複雑な音を出すのに向いていない、進化していない」
「ご名答」
少女は音の発生源を追いかけて、各々の顔を見回していた。