終章 第二百七話:確認行為
「外れたよ?」
画面は再び暗転する。大丈夫だって言ったじゃん。不安になっちゃうよ。
お兄ちゃんはへらっと笑う。画面は5、6、5。やっぱり揃ってない。当たってない。また視線を隣に注ぎかけたところで、「変動」が始まらないことに気付く。すると画面の上の方に牛が現れる。あろうことか、お尻を下に向け、ウンチを落とした。ボーンと大きな音がして、ウンチが落ちた辺り、つまりリーチラインが爆発する。ウンチが爆発する原理がよくわからない。余程訝しげな顔をしていたのだろう、お兄ちゃんが声を上げて笑う。
「復活だよ、復活」
「どうしてウンチが爆発するの?」
何だか、とても馬鹿らしくて、飼育員さんに思わず感情移入してしまったことが少し恥ずかしくなってくる。
「細かいことに突っ込んだら負けだよ。この台は」
煙幕が晴れると、綺麗に赤い図柄、777。
「奈々ちゃんは7を揃えるのが上手いなあ」
お兄ちゃんに誉められて、素直に喜べないのは、私にとってはとても珍しいことだった。
「学園長さんのところに行くの?」
二人は結局二時間弱、ゲームセンターで遊んで帰路についた。疲れは見えず、されどどちらも会話を積極的に行う気配はなかった。そんな中、奈々華が発した言葉だった。
「……俺、話したっけ?」
ううん、と奈々華は首を動かすだけで答えた。
「じゃあどうしてわかったの?」
もう何度登ったかわからない坂。学園へと続く坂。坂城が切り盛りする学園。
「何となく。お兄ちゃんの顔が時々翳るし、後は…… はしゃぎ方かな」
「はしゃぎ方……」
「口では上手く説明できないんだけど、どうも不自然な感じがして」
しかし、昨晩の仁とミルフィリアの会話ほど、張り詰めたような空気はなかった。通わせた心、なくなった距離。
「時々お兄ちゃんは、お前の鋭さが怖いよ」
僅かに口元は緩んでいるが、目は笑っていなかった。途方に暮れた乾いた笑い。「参ったね」と続く。
「……行くの?」
「行かないよ」
「え?」
即答は予想外だったのか、奈々華は聞き返す。
「前にも言ったけど、俺がアイツのために出来ることはないよ」
「……」
「優しくすることは出来る。慰めの言葉をかけることも出来る。だけど、それが意味を成さないことは最早明白だろう」
木室が去ったとき、それは実証された。彼がかけるべきだった言葉は、何の足しにもならない慰めではなくて、目の前に希望を掲げる、極論でもなんでもなく、愛の言葉だった。
「安心した?」
「え?」
「さっきのパチンコ台でもあったろう?」
「はい?」
奈々華は驚き、そして続いた言葉に疑問符。
「ほら? 飼育員告白リーチ。飼育員が出来レースみたいに振られたろ?」
「うん。殴られたやつだよね」
「そうそう」
「あの相手の恋人さんが何言ってるか聞き取れなかったんだけど」
「あれは恋人じゃないよ。お兄ちゃんだ」
「仁君ってこと?」
「んなわけあるか。どんだけ痛い妄想だよ」
仁は思わず噴き出す。
「あの女の子のお兄ちゃんなんだよ。これ以上俺の妹に付きまとうな。このストーカー野郎…… って言ってたんだよ」
「酷い言われよう……」
「仕方ないさ。妹ってのは可愛いもんだからな」
「お兄ちゃん」
奈々華の杞憂は晴れたのか、仁を見つめる目には熱が宿る。
「お兄ちゃんも私に変なのがまとわりついたら、ああやって守ってくれる?」
「ははは。まあね」
仁の頬は少し赤い。どうやら自然に口をついて出た言葉だったらしく、今更になって照れくさくなったようだった。そして、それは奈々華を殊更喜ばせる。
「ずっと?」
「……お前が望むだけね」
奈々華は感極まる。もしかするとその形の良い唇からは、放っておくと歓喜の声が飛び出すのかもしれない。その彫像のようにくっきりとした二重の瞳からは感涙が零れるのかもしれない。だから変に筋肉を強張らせた顔を、俯いて想い人に見せないようにして、すっと仁の手を掴んだ。指を絡めた。仁はまだ気恥ずかしいのか、握り返す力は弱かったが、奈々華にはそれでも十分すぎた。
予報どおり、雲を押し退け、太陽が冬の空に輝いていた。