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終章 第二百四話:ほろ酔いの距離

向こう三日は晴れが続くらしい。

根雪となれずに終わった今年の処女雪は、泥や土を取り込んで、黒や茶にその色を変えた。白のままなら綺麗だともてはやされるのに、自然物が混じり合っただけなのに、人々はまるで汚物を見るように靴で踏むことさえ嫌った。学園の中庭の冬景色もまたそのように無残に変わっていた。

「今日は随分遅いんですね?」

仁の腕に巻かれたシルバーの時計は、夕飯時を少し過ぎた頃、午後の八時。

「それに息が酒臭いですしね。呑んできたのですか?」

「わざわざ説教するために待ち伏せなんてしてたのか?」

アルコールを普段から口にしないミルフィリアは、それを異質な匂いとして敏感に察知する。あまり距離を詰めない仁の口からそれを嗅ぎ分ける程に。

「待ち伏せなんてしてませんよ。たまたま見かけたから声をかけただけです」

嘘だ、という顔はしたが、声には出さなかった。鈍く光る月さえ、厚い雲に覆われて、二人を照らす光源は、学び舎からちらほら注ぐ蛍光灯。まばらなのは、考査を終えて再び実家へと戻る生徒も多いから。仁は「休みの多い学校だね」と、一度坂城をからかったことがある。

「……どうして来ないんですか?」

本題。

「何のこと?」

「遊案ですよ」

ぷつぷつと途切れる。まるで何か腹の中を探り合うようで、二人ともどこかバツが悪そうだ。距離。時間にすると一日二日程度、顔を合わせなかっただけなのに。

「いつか言いませんでした? 浅慮と遠慮を勘違いしてはいけないと」

「……」

汚い雪を踏みしめ、ミルフィリアが仁に近づく。拳銃を持った暴漢が近づいたわけでもないのに、仁はジリと後ずさる。

「貴方は、貴方が幻創痛に苛まれていた時も我々を近づけませんでしたよね?」

「……」

「それも遠慮ですか?」

「……」

仁は鉛を飲まされたような顔で固まっていた。成熟しきらない子供が見せる素直な困惑に近かった。事実、恐らく自分は目の前の二つ年下の少女に比べて、幾らか精神的な成熟度で劣る。仁はそう考えていた。

「遊案は…… 遊案は自分を責めていますよ」

最悪の状態は脱したのか。仁の顔に一瞬浮かんだ安堵を、ミルフィリアは見逃さない。忌々しいものを見るように目を細めて、

「貴方が自分のところを尋ねてこないのは、自分のせいだと」

「な、なんで」

「自分がもっと早くに、現実を見つめていたら…… 木室さんの裏切りを受け止めていたら、貴方はラインハルトを取り逃がさなかったかもしれない…… 近藤の遺体を取り戻すことが出来たかも知れない」

「……アレは俺が。それに結局彼女の位置を掴むことは出来なかった筈だから」

「結果論とは貴方らしくもないですね」

一際鋭い、突き刺すような口調だった。仁は気圧されて口をつぐんだ。

「そうですね。彼女も腐ってもフロイラインの幹部。どうしても尻尾を掴むことは出来なかったかもしれません。だけど…… あの子がもっと深刻に事態を捉えていたら、もっと方策があったかも知れない。少なくとも話し合うことは出来た。違いますか?」

違わなくて、そうするべきだった。

「……坂城は今はどんな状態なんだ?」

ミルフィリアの爪先の辺りに目を落として尋ねた。黒いブーツの先には、汚れた雪が小さく張り付いていた。窘めるより、責めるような瞳から目を逸らした仁に優しい言葉はかからなかった。

「貴方が自分で確かめないから、遊案は、最善を尽くす道を経った自分を、貴方が怒って心配してくれないと思っているんです」

静かな声音なのに、刃が隠れているようだった。

「いい加減、目を背けるのはヤメにしませんか? あの子が前を向いて歩くには、貴方の手が必要なのですよ」

「……」

「気付いていないなんて言わせませんよ? 貴方は人一倍他人の感情の機微には聡いでしょう? 距離を測って…… 見えない心の内を探って…… 敵意と好意を鋭く悟って…… そうやって生きてきたんじゃありませんか?」

「……」

ふうと、一つ溜息を吐いたミルフィリア。少し、ほんの少しだけ眼光が鈍くなったように見えた。

「突っ込みすぎましたね」

もう一度溜息。瞳を閉じて、開いたときにはいつもの彼女。

「なんにしても、これ以上私が口出すことでもありません。これだけ言えば…… 貴方は馬鹿ではありませんからね」

「……」

「ただ一つ。彼女に接するのなら、家族として接してあげてください。でなければ後悔することになりますよ」

仁が何か言いかけて、それを遮るように、ミルフィリアは静かな、しかし有無を言わさぬ口調で続けた。

「貴方と遊案は家族になれるでしょう?」

おやすみなさい、と残して。去り行くミルフィリアの後姿を仁は黙って見つめていた。濃紺のスカートはひらひら揺れ、黒いブーツはてらてら光っていた。


「あんな…… 子供が白馬の王子様に抱くような憧憬を……」

大きくかぶりを振っても、完全に醒めてしまった酔いは戻ってこなかった。

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