終章 第二百三話:灯
「誰にでも如才なく振舞っていたつもりだよ」
地面まで届ききっていないのか、村雲はグラグラと揺らぐ。倒れる寸でで、仁が手を出して支える。それでも倒れ込もうとする力が強くて、仁は諦めて鞘にしまった。
「でもその実、ただの右顧左眄」
自嘲は痛々しくもあった。
「父親のせいだと思った。母親のせいだと思った。俺に人との付き合い方を教えなかったから」
懐に手を入れて、煙草を取り出そうとしてやめた。
「それでもそれなりに上手くいってた」
唇を隠すように手の平を当てた。寒さのせいだけではないだろう。指の先が震えていたのは。
「いつもと同じように。誰に嫌われることなく、やり過ごすように…… 一日を生きていた。いつもと同じように剣道をやった。いつもと同じようにやった。人を殺した」
誰に何の落ち度がなくても、突如日常は崩れる。磨耗した歯車がカランと外れるように。
「こっちに来た。最初坂城を助けるつもりはなかった」
でも、と沈んだ声が出た。
「見捨てることは出来なかった。必死さにほだされた」
ひょっとすると、祐がもし生きてこの言葉を聞いていたらどう言うだろうか。「今度は学園長に責任転嫁か?」と呆れるかも知れない。叱咤されるかもしれない。仁はそうされたいのかもしれない。
「……流された」
女々しい、と付け加えた。
「流されて見えたものもあるんだ。得たものもあるんだ。そういうのを度外視して、弊害だけを被害妄想みたいに……」
仁の目に献花が留まった。寒さの中で、雪の欠片をかぶって小さく輝く。枯れ行く定めに逆らうようにも見えた。
「……」
仁は無言で米神を掻いた。
「すまない。君が何も言い返さないから、気持ちの整理につきあわせてしまった」
本当に目の前で対峙しているように、心苦しそうな笑みを浮かべた。
「明日花を供えに来るよ。奈々華と一緒に…… もしかして邪魔かな? 君は奈々華の事を少し意識していたみたいだしね」
仁は弱々しい笑みのままではぐらかした。
「冗談だよ」
それじゃあ、と背を向けて歩き出す。
階段を下り終えた頃に、肝心なことを話していないことに気付いた。近藤の遺体の件だ。いつの間にか緊張していた。話すつもりのなかったことを長々話して、喫緊の報告をしなかった。思わず舌打ちが出る。しかし、足が戻りかけたところで、いやこれで良いのだと思い直した。取り返せそうになった、もう少しで取り返せる。坂城の体面なんかも慮ってこれまで自重してきたが、限界に近い。もう待っているだけでは意味がないことがわかった。単身アメリカに乗り込んででも奪い返してくる。その時に、携えて、報告しよう。経過など教えても意味はない。
そのまま学園へと歩く。時計を見やると夕食の時間に近づいていた。ふ、と祐の顔が浮かんだ。真っ赤な顔で反論している。先ほどの冗句の時だ。ついに見ることはできなかったけれど、きっとあんな風にムキになって否定するんじゃないだろうか…… 笑みがこみ上げる。
もし世界の一つ一つが、数ある可能性の枝のそれぞれを辿った収斂なら、こんな世界もあっても良い筈だ。奈々華と祐、二人が恋人同士になって、俺がその二人を見届けて朽ちる。二人が笑っているのを見てから断頭台に登れるなら、それは数少ない幸せの世界ではないのか。奈々華はああ言ってくれたが、俺を許してくれる稀有な人間はきっと祐君ぐらいだ。信賞必罰。いずれ必ず訪れるだろう。その時彼女を巻き込んではいけない。俺のせいで人生を狂わしてしまった。今また立て直して行く。その過程に俺が必要なら、いくらでも手を貸そう。いつか俺の手が要らなくなる時まで…… だから二人が、彼が笑っている世界、彼女が笑っている世界。近藤が死んでいなければ尚いい。村雲が死んでいなければ尚いい。夢想する。
懐から煙草を取り出す。ジッポライターを開けて擦るが、火は出ない。油が切れているのか。ジャッジャッと虚しい音だけが響いて親指が黒くなっていく。
「……マッチ売りの少女でもいればいいんだけどな」
つまらない独り言は冬の空に吸い込まれていった。