終章 第二百二話:最低の追悼
耳が千切れるような寒さに街は支配されていて、道行く誰も彼も、冷え切った心と体を温めるために家路を急いでいた。街路樹たちの枝に溶け残った雪は、街灯に照らされて、硝子を散りばめたように輝いていた。だけどよく見ると、光っていない、若しくは反射の弱い部分も沢山ある。きっと光を受け入れる力のある結晶だけ、華麗に瞬くのだ。
すれ違いざまの女性から、強い香水の匂いが香り、鼻に残り、仁は僅かに顔を顰めた。ヒメネスと共に行けたなら、彼の心はもう少し穏やかだっただろうか。それとも今の彼にあの無垢な優しさは、冬の空気より身を裂くだろうか。何にせよ、その選択肢は彼にはない。もしヒメネスと仲良く歩いているのを職場の誰かに見つかったりしたら、恩を仇で返すことになる。謂れもない紛糾や疑惑に苛まれる彼の姿を思い浮かべるだけで胸が痛んだ。
「暗いな」
ポツリと独り言。静でさえ置いてきた。しきりに帯同を促した村雲の声が懐かしくなる。骨壷と、腰に下げた村雲の居なくなった村雲。
夜目の利く仁と言えど、灯りのない階段を登るのは、少々危険だった。ただでさえコケが生えて足場は不安定なのに、その上昨日の雪。下手をすると転げ落ちるかもしれない。仁は一度首を左右に傾け、骨を鳴らした。そしてそのまま、春の日の午後、そこを登るように躊躇なく登っていった。
ぐじゅぐじゅと鈍い感触が靴先から、胸の内にまで入り込むようで時折唇を曲げながら登った。きっと昨日から誰も階段を利用していないのだろう、雪は降り積もったままの姿で、冷気に固められていた。滑りそうになっても、仁は一つも声を漏らさなかった。ただ押し黙って、修験者が山に登るように、険しい顔をしていた。
祐の墓は、やはり雪が降り積もったまま、冷え込むに任せていた。仁がここに来たのは、実は葬儀の時以来だった。二日に一度、仁は奈々華を連れ立って墓の、例の階段の前まで来ていたが、決まって階段を登りきるのは奈々華一人だった。そして墓の掃除を一通り終え、合掌して戻ってくる。仁はいつも階段の下で、自身の不義理に歯を食いしばり、尻拭いをする奈々華に申し訳なくて、俯いて待っていた。
あわせる顔がない。つまらない嘘を並べても誰に対しても何の意味もなかった。何よりそんなことをしては、仁は自分を決して許せなくなる。感情に論理の膜を張れば、多少は形になるけれど、感情に別の感情の膜を張っても、きっと上から貼り付ける感情を上手く演じ切れなければ、嘘にすらならなくて、自分の薄っぺらさを露呈するだけだ。
黒味がかったグレーの墓石の上に乗った雪を払いのける。つんと、すぐに体温を奪われるけれど、仁は表情一つ変えず丹念にそれらをのけた。暗さの中にあって、はっきりと刻まれた名が見える。「近藤 祐之墓」、仁は首をそのまま上げて、空を仰いだ。月は儚く下弦。それでも彼に戒めの名を、戒めの墓標を見せた。しばらく首を持ち上げたままだったが、やがてまた戻した。そしてそのまま、腰に下げた村雲を引き抜いた。銀色の輝く刀身が地面に刺さる。ザクっと積雪の上に立つ。祐の目前に晒された。
「村雲を斬ったよ」
答えはない。余韻が虚空に消える前に、仁はまた音を発した。
「友達を斬った」
墓所内は静まり返っていて、動物の気配さえなかった。境内の方も同様で、住職や関係者も居ないようだった。近くに居住用の建物は見当たらない。祐のもの以外にも、ミルフィリアの両親のもの含め、他の墓石にも雪化粧。どうやら此処の寺はあまり墓所の管理には頓着しないようだ。
「驚きだろう? 君はそんなヤツを許したんだぜ?」
実は仁は階段を登りきった辺りまで、自身の不義理をいの一番に謝ろうと思っていた。だけど、口をついて出たのは自身の情けない、煮え切らない私事だった。
「きっと君と奈々華が秤にかかったら、君を斬った」
息をつかずに、捲くし立てるように一気に喋った。
「そう選ぶんだ」
最低だろ? と笑ってみせる。思春期の少年が、警戒に、自己防衛に、虚勢を貼り付けたような笑みだった。すぐにばれる嘘。だけど彼は生憎それで良しと、若しくはその不実に気付かないほど幼くはなかった。寧ろ発した前提として意識化はあったのかもしれない。
「だけど後悔するんだ。もっと俺に力があれば…… って」
今度は眉を下げて甲斐性なく笑った。
「これ以上の力を得てどうするんだろうな。壊すだけの力を」
答えない。墓石は鎮座するだけ。
「君だから言うよ。ただ逃げ場を探してるだけなんだ。理不尽をして責任転嫁してるだけなんだ」
一つ大きな溜息をついた。
「どうして俺が…… っていつも心のどこかで思ってる。どうして俺がこんな取捨選択をしなきゃいけないんだ。どうして俺が誰かを殺さなきゃいけないんだ。どうして俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだって」
僅かに凪いだ風が、左から右へ、仁の前髪を小さく揺らした。少し隠れ気味になっている仁の目元を露にした。