終章 第二百一話:友の範疇
「何を話していたの?」
部屋に戻ると奈々華の早速の質問。朗らかに笑っている実、目だけは笑っていなかった。兄の表情の変化を、微かな感情の揺れさえも、見逃さない。詰問されるよりも余程気味が悪くて、仁はたじろいで妹から目をそらした。
「坂城の様子について聞いてみただけだよ」
「ふうん。それで?」
「いや。新居先生は何も知らないって」
「心配?」
「そりゃあ」
仁の目が窓の外へ。雪は永遠とはいかず、今朝二人が目を醒ましたときには止んでいた。それでも溶けるまでには至らず、斜陽を取り込んできらびやかに中庭を彩っている。午後の四時を回った頃、もしかするとまた夜半にかけて降るのかもしれない。凛とした空気。
「見に行くの?」
対象は新居から坂城へ。奈々華も忙しい。表情が晴れないのは、仁が肯定を返すと思っているから。
「いや……」
だけど小さな否定。
「え?」
「ここまでだよ」
「何が?」
得心いかない奈々華は仁の横顔を見つめたきり。
「他人の俺が踏み込んでいいのは、ここまでだよ」
線引き。ソフトパックのケースから一本、メンソールの煙草を取り出して火を点ける。もう部屋でも気兼ねなく吸えるようになった。
「ミリーに任せよう。家族の問題は家族にしか解決できない」
「……」
「お前がまた俺と一緒に居るのは……」
ふううと大きく煙を吐き出す。続くセリフが少し臭いから。
「俺にしか、家族にしか満たせない感情もあるからだろう?」
それは仁自身にも言えた。今もこうして本音を口に出せるのは、家族の前だから。
「いずれ元居た世界に帰る俺が何を言っても響かないよ」
締めくくった言葉は、卑屈になっているわけでもなく、厳然たる事実だった。
仁の携帯電話が鳴ったのは、もう辺りがすっか暗くなった頃だった。ヒメネスからだった。夜勤に向かう足を伸ばして、仁のもとへ村雲の遺骨を届けに来てくれると言った。
指定した時間通りにやって来た。昨日まで村雲の遺体があった場所。一人出迎えた仁は、いつも彼に向ける笑顔を見せた。まるでまだ在職で、これから共に勤務に向かうような、そんな雰囲気だった。
「広畠さんは?」
「夕方から仕事」
やり取りも同僚のようだった。仁は小さな寂しさを胸に感じていた。しかしそれも自身で選び取った道の帰結だった。
「……そうか」
「うん…… これ」
ヒメネスの腕には、陶磁の骨壷が抱かれていた。漆を塗った黒に、金の菊があしらわれている。一目見て安物ではないとわかった。きっと広畠が気を利かせ、用意してくれたものだろう。慎重に差し出されたそれを仁もまた丁寧に両手で受け取った。
偉大な戦士、優しき友。利用して、選ばず、切り捨てた自身に彼を友と呼ぶ資格があるのか、仁はわからなくなっていた。
広畠の気遣い。察するに、仁の心を正しく汲み、丁重に葬ってくれた。幻創痛や、黒の精霊騒ぎで迷惑を掛けた自分に、彼の厚意を受ける資格があるのか、わからなくなっていた。
仁は目頭が熱くなった。そんな彼を、今だってヒメネスは我がことのように、眉を曲げて見ている。分かち合おうとしてくれている。慌てて別の話題を振るのが精一杯だった。
「そういや、俺が辞めてから精霊はどうだ?」
苦し紛れの話題転換に、仁はまた自己嫌悪しそうになった。本来なら再会してすぐに聞くべき話題だった。彼らは自分が仕事を辞めてからも、変わらず親愛を向けてくれている。それに引き換え、自分はどうだ、と。仕事を辞めてしまったらもう他人事。いきなり連絡を寄越したかと思えば、手伝ってくれ、と。虫の良い。自分のことしか考えていない。臍を噛んで、噛み千切ってやりたい気分だった。
「わからないんだ」
「……え?」
「どうしてか、ジンが辞めてからぱったり、黒の精霊も、強い精霊も出なくなったんだ」
仁は一旦自身の情けない後ろ向きな考えを頭の隅に追いやり、ヒメネスの言葉を反芻していた。
「おかしいよね。やっぱりジンのせいじゃなかったんだ」
「え?」
「だってそうでしょ? もしジンがやってたんなら、一人になった今の方が断然やりやすくなって、もっともっと出てくるはずだもん!」
ヒメネスは事態に我が意を得たり。嬉々とした声。仁は彼のあどけない笑顔を久しぶりに見た。一片の翳もなく、五月の空のように澄み切った笑顔。仁はいよいよ骨壷を持つ手に力を込めた。
心がぐちゃぐちゃになってしまいそうだった。ヒメネスの言うとおりであって、フロイラインの、平内涼子の仕業だったにしても、その意図は掴めないままなのに、仁にはそんなことはどうでも良いことに思えてならなかった。
「あ、もう行かなきゃ!」
「……」
「またね!」
「ああ…… ありがとう」
搾り出した声は、不恰好にかすれていた。背を向けて走り出すヒメネス。仁がちらりと腕時計を見ると、夜勤の勤務開始時刻までは一時間を切っていた。ここからだと走ってぎりぎり間に合うかどうか。小さくなる背中を、仁は見守っていた。突如立ち止まった。くるりと振り返ると、恥ずかしくなるくらいの大声で「またね!」と手を振る。
「ああ! またな!」
仁も叫んでいた。