終章 第百九十九話:二人で見る夢
「ただいま」の挨拶にも疲れが滲んでいた。
仁は部屋に帰ると、手早く着替えると夕食もとらずにベッドに入った。連戦。少なくとも村雲との戦いは一歩間違えば自身が死んでいたかもしれない正真正銘の殺し合い。友と認める相手との殺し合い。奈々華は夕食の準備もしていたが、フイにされても何も言うことはなかった。念のために作っていただけで、仁が食事をとる可能性は限りなくゼロに近いと予想していた。仁は疲れきっていた。仮に元気でも食べ物が喉を通るとも思えなかった。
奈々華が違和感を覚えたのは、仁の寝顔を確認するためにベッドに近づいたときだった。勿論やましい意図ではなく、仁がうなされたり涙を流していないか見るためだった。もしそのようになっていても、彼女にはどうしてやることも出来ないが…… せめて手を繋いだり、共に泣いてやることくらいは出来るから。
「お兄ちゃん?」
いびきはおろか、寝息すら立てていなかった。奈々華からはそっぽを向くように壁に対している顔は、瞳も唇も強く閉じられていた。
「もしかして眠れないの?」
枕に乗った仁の頭が小さく動いた。
「……眠りたくないんだ」
やがて消え入りそうな声が返ってきた。
「どうして?」
木の柵に手をかけて、奈々華は仁の顔を覗きこむようにした。そうするとますます仁は壁側に寄った。可愛いなあ、と奈々華は口の中だけで呟いた。
「怖いんだ」
「村雲さんのことを忘れそうで?」
小さな子供に尋ねるように。
「……俺は慣れていっているんじゃないかって」
「慣れる?」
「うん」
「何に?」
「誰かを殺すことに」
「……」
仁は背中越しにも、無言の奈々華が優しい顔をして自分の話を聞いてくれているのを感じていた。
「近藤さんを殺した時は辛くて、怖くて眠れなかった」
「うん」
「疲れていたはずなのに眠れなかった」
「うん」
「祐君が死んだ時、申し訳なくて、情けなくて眠れなかった」
「うん」
「君に泣きついた」
「うん」
「今回は自分で選んだから……」
声が震える。
「でも本当はどうなんだろう? ただ慣れただけなんじゃないのか? 少しづつ壊れていってるんじゃないのか?」
「……」
二人の間に沈黙が横たわろうとしたとき、奈々華がそっと仁の頬に手を当てた。
「奈々?」
「人は慣れる生き物だよ」
「……」
「でもそれは壊れてるんじゃなくて、汚れていってるんじゃなくて、人の強さなんだよ」
「……」
「確かに慣れたくないこともあるよ。けどそれは人が心を保つための強さ」
「弱さだよ。慣れなければ保てない心なんて」
「そうかもね」
仁は簡単に意見を翻した奈々華に責めるように向き直る。目には微かな苛立ちが見えた。
「適当なこと……」
「強くても弱くてもいいよ」
「え?」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんであって欲しい。私の知る、私を一番に大切にしてくれる優しいお兄ちゃん」
「……」
「私を選んでくれてありがとう。だから私も同罪。苦しい時は私も一緒に苦しむ。楽しい時は私も一緒に笑う」
「奈々華……」
不意に奈々華は晴れやかに笑う。そして当然のように柵を乗り越え、布団をめくって仁の隣に潜り込む。
「だから、しょうがないから…… 今日は一緒に寝てあげるよ」
やましさ半分、やさしさ半分。仁はその変わり身の早さに呆れた顔をするが、黙って受け入れる。
「……ありがとう」
再び奈々華に背を向けた仁から返ってきた精一杯の声。
「おやすみ」
その背にピタリと張り付いた奈々華の全てを包み込むような声。口を挟むことなく部屋の中で二人を見守る猫と刀の精霊は、心の中で祈った。願わくば、今だけは、彼らの休息が安らかなるものであるようにと。